1. 加害者と被害者
「佐々木さん、あの頃よくいじめてくれたわね!」
還暦を迎えこれが最後の同級会だということで、小学校の同じクラスの食事会に仲間が10数人集まったとき、みんなの前である女性からこう言われて返事に困った。私はその女性からいじわるされた記憶はあるが、彼女をいじめた記憶は全くなかった。
私からいじめられたという記憶が彼女の心から数十年も消えていないことを申し訳なく思い、二次会でお詫びをした。少しでも心の傷が癒やされたことを願っている。
またある時、10年ほど連絡がなかった親友に電話をした。「いやあ、ずいぶん久しぶりだねえ、元気か」という返事を期待していたが、なぜか彼は緊張してぎこちなかった。要件の話が終わり、最後にこう言われた。
「佐々木君、あの時、君を傷つける発言をしてしまい本当に申し訳なかった。気まずい思いから君に連絡できなくなってしまったんだ、どうか赦(ゆる)してくれ」
私は彼から傷つけられた記憶はなかったので、それを知った彼はホッとしたようだった。
このように、加害者と被害者の意識が食い違うことが多い。事実、紛争の原因はお互いの言動の相手に与えた影響の認識や記憶の相違によることがほとんどである。夫婦のDV、男女のセクハラ、上司部下のパワハラなどの訴訟では必ずと言ってよいほど、当事者間の加害・被害の意識に大きなずれがある。加害者は普通の対応をしたと思っているが、被害者はひどく傷つけられたのである。
最近でも、大手の回転ずし「スシロー」での高校生のいたずら動画がネットで世界中に拡散され、スシローが莫大(ばくだい)な損害を受け、大きな社会問題にまで発展した。もちろん彼は自分のいたずらがそんな大問題に発展するとは夢にも思っていない。その結果、彼は社会から非難を浴び、高校を中退しただけでなく、被害者のスシローから民事・刑事の法的責任を厳しく追及されることになる。
2. 心の傷の癒やし
加害者の謝罪や損害賠償で、被害者の被害はある程度償われるかもしれない。だが、被害を受けた人の心の傷が癒やされるとは限らない。心の浅い部分の傷は、心の持ち方を変えたり、薬物の服用や精神科医のカウンセリングなどの治療により癒やされるかもしれない。年月がたてば自然に癒やされることもある。でも、心の深い部分の傷は一生消えないかもしれない。
聖書の最大のテーマは「罪と罰と赦し」である。父なる神は人間の身代わりに御子イエスを十字架につけて罰することにより、人間の神に対する罪を赦してくださった。
キリストは無実なのに死刑を宣告され、唾を吐きかけられ、顔を殴られ、頭にいばらの冠をかぶせられ、着ていた衣を脱がせて分けられ、体中を鞭で打たれて血を流し、十字架を担いでゴルゴダの丘への道を歩まされ、両手両足に釘を打ち込まれ、両足を折られて十字架に長時間さらされ、最後は槍で脇腹を刺されて殺された。これほどの不条理と苦痛があるだろうか。私たちの罪はまさに神を殺すほどの大きな罪なのである。
神が私たちの甚大な罪を赦してくださった。だから、私たちも自分を傷つけた加害者を赦すべきではないだろうか。心の傷は人を赦さないことが原因であると思う。加害者を心から赦せば、心の深い傷も癒やされるはずである。
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです』」(ルカ23:34)
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