今回は、5章27~32節と19章1~10節を読みます。ここでは、徴税人のレビとザアカイをイエス様が招いたお話が伝えられています。徴税人とは住民から税を徴収する人のことですが、当時は不正な取り立てが横行していたようです。そのため彼らは罪人と見なされ、ファリサイ派の人々や律法学者たちからは敬遠されていました。
徴税人レビが招かれる
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」 31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
イエス様がガリラヤにおられたときに戻って、このお話をお伝えします。マタイ福音書の並行箇所では、レビはマタイと呼ばれています。このマタイとは、ペトロやヤコブ、ヨハネと同じイエス様の12弟子の1人であるマタイです。したがってこのお話は、5章1~11節の、漁師であったペトロ、ヤコブ、ヨハネが、イエス様に招かれて弟子となったお話と同様の質を持っていると考えてもよいでしょう。
レビは収税所に座っていたとありますから、通行税を取る徴税人であったのでしょう。イエス様がレビを、「わたしに従いなさい」と招かれると、彼は何もかも捨てて立ち上がってイエス様に従いました。これは、ペトロたちが「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(5:11)とされ、それまでの漁師というアイデンティティーを捨てたのと同様に、レビが徴税人というアイデンティティーを捨ててイエス様に従ったことを意味するのだと思います。
レビは自分の家に、イエス様と他の徴税人たちを招き入れ、盛大な宴会を催します。イエス様はその後も徴税人や罪人たちと食事をされますが、レビの家での宴会はその最初のものとなります。レビは12弟子という、伝道者として召されたわけですが、他の徴税人たちをイエス様の元に連れてくるという、最初の伝道をここで行っているわけです。
しかし、それを見ていたファリサイ派の人々や律法学者たちは、弟子たちに対し「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言います。こうした考えは、彼らが律法から導き出していた解釈であったのかもしれません。
しかし、イエス様はこれらの言い分を肯定されませんでした。彼らに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とお答えになりました。「正しい人」とは、「自分を正しいとしている人」のことであろうと思います。
イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちの論理に否を唱え、その後も徴税人たちを自分の食卓に招きます。それは「神の国への招き」でもあります。
徴税人ザアカイが招かれる
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
このお話はルカ福音書に固有なものです。「善いサマリア人の例え」や「放蕩息子と兄と父の例え」など、ルカ福音書に固有なお話は、子どもたちが関心を寄せるものが多いと思います。ザアカイのこのお話も、子どもたちに喜ばれるものであり、紙芝居や絵本の題材にもなっています。
前述したレビの招きは、ガリラヤでの出来事でしたが、このザアカイの招きは、ルカ福音書に記されているエルサレムへの旅の中でも、最後の方に位置しています。エルサレムからそれほど遠くない、エリコという町での出来事です。この町にザアカイという、レビと同じ徴税人がいました。彼は「徴税人の頭」とあるように、徴税人の中でもリーダー格の存在だったようです。
冒頭で、徴税人の間では当時「不正な取り立てが横行していた」とお伝えしましたが、ザアカイはそんな徴税人たちの中でも、不正な取り立てを最も行っていた人ではなかったでしょうか。それ故に彼は、金持ちではありました。そのザアカイがイエス様に招かれたのです。
ザアカイの住むエリコに、イエス様がやって来ました。イエス様の周りには、たくさんの人が集まっていました。ザアカイは背が低かったので、群集の向こう側にいるイエス様を見ることができなかったのです。しかし、彼はイエス様を見たかったのでいちじく桑の木に上り、そこからイエス様を見ようとしました。
イエス様は木の上のザアカイを見つけます。ここを読むと、食べてはいけない実を食べてしまったアダムとエバが、木の陰に隠れたときに、神様が「どこにいるのか」と呼びかけられたことを連想します。神様の独り子であるイエス様は、私たちを捜し出そうとされるお方なのです。
ザアカイを見つけたイエス様は、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。ザアカイの置かれている立場を想像するとき、お金持ちではあったけれども、不正な取り立てをしていたが故に、町の人たちとの関係は良いものではなかったと思います。きっと寂しさを抱えていたことでしょう。
イエス様はそのザアカイに、「降りて来なさい」と言って招かれ、彼の家に泊まったのです。イエス様には弟子たちが一緒についていましたから、さぞかしにぎやかな一夜となったことでしょう。レビの家と同じように、宴会のようなひとときが持たれたのだと思います。イエス様がザアカイに対してなさったことは、レビに対するものと同じように、「神の国への招き」であったのだと思います。
しかし、それを見ていた人たちは、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきます。イエス様は、レビの家で宴会に参加したときと同じようなことを、人々からつぶやかれたわけです。イエス様はそれに対して、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。これは、レビの家で言われた「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉とよく似ています。
ルカ福音書における2人の徴税人の招きの出来事は、いろいろな面で共通していると思います。その招きが、今も私たちになされているのです。そして、「今日、救いがこの家を訪れた」というザアカイへ告げられたイエス様の言葉は、私たちへの言葉でもあるのです。(続く)
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