物事の判断が迫られたとき、誰もが簡単に決められるようなことや、自分の好みで選んでよいものもありますが、時には、人生の方向が大きく変わってしまったり、人間関係に影響を与えてしまうような、簡単には決められない選択があります。
クリスチャンで毎日聖書を通読し、祈り、交わりをし、伝道している人ならば、神様の御心に敏感になれるので、過った判断をする率が減ります。その上で大切なのは、愛による判断です。しかも、神の視点から見た愛です。
ある人が、自分がしたいことを口にしたとします。親しい関係であれば、それを応援してあげたいと思うのが人情です。人間の視点から見た愛です。しかし、人間の視点から見た愛が、神の視点から見た愛と一致するとは限りません。
その違いが分かったときには、神の視点から見た愛を選ばなくてはいけません。そうすると、余計なお世話と煙たがれたり、嫌がられたり、憎まれたり、避けられる可能性もあります。多くの人から理解されない可能性もあります。
しかし信仰があるならば、それを乗り越えることができます。
「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとが成る」(箴言19:21)
一般に、民主主義は素晴らしい制度ですが、多数決が必ずしも正しい選択になるとは限りません。人は罪人であり、自己中心であり、邪悪な性質を持っているからです。聖書を読み、祈り、神との関係を深めること。神の御心を知り、謙遜にそれを受け止め、従うことが物事の判断基準になるなら、間違った判断をすることが限りなく少なくなるはずです。
さらにそのような人は、間違った判断をしたことに気付いたら、容易に方向転換が可能なはずです。
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)
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