高校時代、学校の試験や大学入試のために、文学作品と作者の組み合わせをノートに書いて覚えた。その中で、いつも気になっていたのが島崎藤村の『破戒』である。「破壊」ではなく「破戒」。意味は知っていた。何かの戒めを破るということ。しかもそれを自覚的に行うという響きに、背徳的で危険な香りを感じていたことを覚えている。
しかし当時の私の興味はその程度で、以後あまりこの作品を真正面から考える機会がないまま大人になってしまった。しかしこの7月、『破戒』がスクリーンに60年ぶりによみがえることになった。1948年に木下恵介、62年に市川崑(こん)が映画化しているため、今回で3度目の映画化である。名だたる巨匠らが自らの存在価値を示すかのように生み出した映画「破戒」。彼らからのバトンを受け継いで今回映画化したのは、前田和男。前田は、椎名桔平主演の映画「発熱天使」や、映画誌「キネマ旬報」の文化映画部門ベストテンで7位に入った「みみをすます」を手がけ、好評を博した監督である。
主演は、映画「東京リベンジャーズ」やテレビドラマ「ファイトソング」などで活躍が目覚ましい間宮祥太朗。自らの出自に苦悩しつつも、最後には己のアイデンティティーを見いだし、前向きに生きようとする主人公・瀬川丑松(うしまつ)を演じている。丑松に好意を寄せる寺の娘・志保を演じるのは若手女優の中でも演技の評価が特に高い石井杏奈。そして悩める丑松を支える親友・銀之助を、矢本悠馬が演じる。彼のひょうひょうとした演技は、人間の業とでもいうべき差別を扱う本作において、重苦しい雰囲気に爽やかな風を吹き込む効果をもたらしているといえる。さらに特筆すべきは、朝ドラ「おしん」の小林綾子が住職の妻役で出演していること。彼女がスクリーンに映るだけで、なぜか画面が引き締まる。
映画は冒頭に「全国水平社創立100周年記念作品」という文言が映し出される。この段階で、部落差別問題を被差別側の視点から描く前提が提示されることになる。前2作を未見のため比較はできないが、作風はある意味「教科書通り」である。分かりやすい敵役が登場し、主人公の秘密(部落民であること)を暴こうとし、同じ女性(志保)に恋をし、社会主義というイデオロギーをめぐって対立していく。このあたりの展開はあまりにもステレオタイプであるため、まるで水平社の「教育ビデオ」を見せられているかのような錯覚に陥ることもある。
だが、そのような定石を踏まえつつも展開されるエモーショナルな人間ドラマには感服させられた。その最大の要因は、主人公の丑松を演じた間宮祥太朗だろう。常に冷静沈着で感情をほとんど表に出さない丑松。彼が内に抱える葛藤を見事に演じている。普段が冷静であるが故に、自らの出自に関する根源的な問い(なぜ部落民は差別を受けなければならないのか)と向き合わざるを得なかった丑松が、一気に感情をほとばしらせるシーンは、観ている側も胸がつぶされそうな感覚に襲われた。そして何より、尋常小学校の教員として、未来を生きる子どもたちに向き合い、自らの出自を告げるシーンは、涙なくしては観られない。
日露戦争の時代だから20世紀初頭である。江戸から明治になり、士農工商に代表される身分制度が撤廃された。しかしそれにもかかわらず、人々の中に巣食う「差別意識」は消えることがなく、それ故に「穢多(えた)」とさげすまれた人々の苦しみはなくなることがなかった。その中で、丑松はその出自を絶対に告白してはならないと父から強く戒められる。この戒めを「破る」までの物語が本作である。
丑松の心の転機となるのは、同じく部落民出身で、自らを「穢多」であったと告白する文筆家・猪子蓮太郎との出会いである。猪子が強く生きる見本となり、丑松は彼のような強さを自らも得たいと願うようになっていく。猪子は丑松に語る。差別をする人間は弱いのだと。この一言から、丑松の社会を見る目が少しずつ変わり始めていく。そして出自を隠して教壇に立ち続ける自らの在り方にも疑義を抱くようになっていく。
日本において、社会運動とキリスト教はある時期とても親和性が高かった。世の中の矛盾やいわれなき差別を解消しようとする社会思想と、現世の在り方を否定し、より良き「神の国」を建設しようとするキリスト教思想とは、異なる立場にあっても、同じものを見据えていたといえるのかもしれない。だから共に体制側からの弾圧に遭遇したし、その中でマイノリティー意識を持たざるを得なかったといえる。
丑松にとっての猪子は、まさにクリスチャンにとってのイエス・キリストのような存在として本作では描かれている。自らのアイデンティティーに目覚めさせてくれた存在であり、新たな時代を生きる人間のために命を賭す姿がそこに重ねられる。イエス・キリストの生きざまは弟子たちに受け継がれ、やがて人々に伝播(でんぱ)していき、そうした人々はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれるようになっていった。同じく本作においては、猪子の生きざまが丑松を変え、丑松の生きざまが子どもたちへ伝播していく。
『破戒』が今、この時代に映画化された意味を考えてみる。すると見えてくるのは、世界が分断の憂き目に遭い、「持てる者」と「持たざる者」の乖離(かいり)が次第に深刻さを増している現状である。今の時代だからこそ、「差別」の現実や「差別意識」があぶり出す人の罪性について、キリスト教界は声を上げなければならないのだろう。それは、そんな罪性を持つ人間に対する神のまなざしを体現することである。どんな人間も「神に愛されている」。そのことを、あえて過去の過ち(『破戒』の時代)を振り返ることで、再び新たな思いで受け止め直す機会とすべきなのだろう。
■ 映画「破戒」予告編
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