「おはよう、サビ、ブチ、ミコ、ミィ…」。朝は、猫たちが寄ってたかって「お腹がすいた」と叫ぶので、大忙しの私です。外はまだ朝日が昇る前、冷たい闇が広がっている朝の4時。まだ布団から出たくないというのに、お構いなしの猫たちは一斉に頭突きをしては私を起こすのですから。一通りご飯をやると、静かな明け方の時間を満喫します。外に出るにはまだ寒い日の出前。日が昇るまで私は、小さな丸テーブルでお茶を入れます。今日は、春に摘んで乾かしてあったラベンダーの花びらで、温かなお茶を入れましょう。
さて、長くイエス様と共に、くるくる回るさくら時計の針に乗って思い出を旅してしまいました。思い出とは、年を経るとなお良いものですね。その時には、自分がなぜこんな目に合うのかと分からなかったことさえも、意味があったことを教えられるようなのですから。そして、どんな痛みや苦しみさえもイエス様の御手の中にあり、慈しみのまなざしの中にあったことを知ることができるのですから。ですから私は、思い出旅行が大好きなのです。
きっとこれからも繰り返し繰り返し、自分の人生を何度も旅することでしょう。そしてそのたびに、「ああ、あんなこともあった。そしてこんなことを知ったのか」と新しい発見があるのでしょう。それは、神様がご計画してくださった私のために作られた日々が、なんと奇(くす)しく神様の愛に満ちあふれたものであったか、あなた様の愛を知るための旅路であるのです。そのたびに、御言葉は命を持って深くから湧き上がってくるのです。私は完全に暗唱している数少ない御言葉の一つを口に出しました。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:13〜16)
私はラベンダーのあまい香りに包まれながら、ラベンダーティーを飲みました。温かなお湯の中にラベンダーの優しい力が満ち満ちて、私の喉を通り、お腹の深いところ、心の傷のあるところまで癒やしてくれるようなのです。そうです。今でも私は完全に癒やされたとは言えません。傷は今でも痛がゆいようにうずき、その深くには小さな小さな幼子の私がいます。その幼子の私は「寂しいよう」と時に泣いて暴れては、私を困らせます。イエス様を知ったばかりの時には、この完全なるお方は、私のえぐれた傷さえも完全に治してくださるのだと期待しました。もちろん、イエス様にそれができないことはないでしょう。しかし、イエス様は私にしっかり傷跡を残されました。ですから、私は老年期を間近に迎えても、なおも幼く ‘神の国はこのような者のものである’ とイエス様に抱き上げられる幼子でいられるのでありましょう。
そうです、私は子どものようにあなたを慕い、あなたがもう一度この世界に来られる日を、心をうずうずとさせながら待ち望み、いつか迎える ‘死’ の日のことさえ、あなた様の世界に行けるのだと楽しみに思うこともできるのです。
自然の草花がそれぞれに持たされた、不思議な力…ラベンダーのエキスが、心の傷の深いところ、幼子の私を包むようです。幼子の私はまたまたぐずっているのです。
「どうして天のお父様は、あんなにも私ばかりを打ったのかしら」。すると、大好きなお兄様のイエス様が、頬がくっつくほどにそばに来てくださって、私に教えてくださるのです。
「多くの人がお前と同じように叫んでいることだろう。それでも、お父様を愛するお前も、分かってきたことだろう。お父様はお前を特別に愛されて、特別に取り扱われたのだということが」
「そうかしら」。私はちょっと得意げになって、上目遣いでイエス様に聞くのです。イエス様は、それは優しくほほ笑むと、さくら色の花びらで縁取られたさくら時計が現れて、ゆっくりと針を戻してゆきました。
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私に与えられた、青い瓦屋根の小さなおうちには、野草がぼうぼうに生えていました。私はその野草の一つ一つを調べるという楽しみを持つようになっておりました。すると、今まで気にも留めていなかった草花の一つ一つが神様からふんだんに愛されて、それぞれが特有の意味や力を備えられていることを教えられたのです。
神様の口笛のような風に乗って種が運ばれ、この庭に生えてくれた草花は、神様が贈ってくれたプレゼントのようでありました。取っても取っても生えてくる、スギナにドクダミ、ラベンダーやオトギリソウも見つけました。私は手始めにラベンダーを摘んで、よく洗って乾かして、ポプリを作ろうと思い立ちました。それを枕に忍ばせて眠ると、それは深くよく眠れるというのです。掃除人として働く病院には、心が騒いで眠れないと苦しんでいる患者さんもおりました。ラベンダーは心を落ち着け、なだめてくれ、そして深い眠りにいざなう力を持っていました。私は慣れない針仕事をして、小さな巾着を作り、ラベンダーをふんだんに詰めてあげました。患者さんの枕にポプリを入れると、それは喜んでくれました。「私も欲しい」「僕も欲しい」とほかの人たちからも声が上がって、私はまた忙しくなりました。
ラベンダーをもっと育てるために、引き抜いた草を調べてみると ‘スギナ’ というようでした。なんということでしょう。こんな一見どうしようもない雑草さえ、乾かして煮だすと、それは体に良いお茶になるというのですから。黄金色に輝くまで煮だしたら、冷たく冷やしていただきます。それは舌にほろ苦く、それは味わい深いお茶になり、それで体にまで良いというのです。まるで神様が私の体をいたわって、庭に運んでくれたように思いました。一見、雑草がぼうぼうの、どうしようもない庭でさえ、実は神様が私のためにすべて備えてくださったものであったのです。
種などまいていないというのに、季節ごとにいろいろな花も生えてきてくれました。私の体を癒やし、香りは甘美で、また目に麗しく、神様はその愛をお示しになられました。
その上、不思議と私の庭は鳥たちのすみかになっていったのです。鳩がそれは上手に巣を作り、卵を産み、守りました。クルック、クルック、かわいらしい鳴き声が庭にこだまし、私も卵がかえる日を心待ちにしておりました。そんなある日に、台風が来たのです。私はいてもたってもいられずに窓の外に目をやって、雨のしぶきと風に打たれながら卵を守る鳩のために祈りました。
眠れずに祈りとおしました。気が付くと世界に光が差し込んで、表は驚くほどに晴れ渡っておりました。その空に、ピーピーとか細いヒナたちの鳴き声が響き渡ったものですから、それはうれしかったものでした。そして、もう二度とこんなつらい夜は過ごしたくないと、私は慣れない大工仕事で鳥の巣箱らしきものを作りました。私の家の濡れ縁は、野良猫たちの良い寝床になっておりました。過酷な外の世界で生きる猫たちはいろいろな病気にかかっておりました。猫たちを連れて、病院通いに繰り出して、家はいやだと言う子以外は皆家に入れてやりました。あれよあれよという間に、私の毎日は騒がしくなっていったのです。
私の庭に訪れる小さな命たちは皆、神様からの贈り物のようでありました。一人で寂しくないように、‘自分は無用だ’ なんて思わないでよいように、私にいろいろな役目を与えてくださったのです。
そんな私の家に、疎遠だった母と母の連れ合いも遊びに来るようになりました。母の連れ合いは、私の苦手な鳥の巣箱づくりも手伝ってくれました。それは上手に作るので、私は驚いたものでした。また、家に入りたがらない猫の子たちのために、雨よけのおうちや雨よけのある立派なトイレも作ってくれました。私が喜ぶので、母も男性も、それは幸せそうでした。そして、神様がその光景を喜んでくださっているかのように、庭の花たちが輝いていたことを覚えています。
眠りの間際に、まぶたの裏にちかちかと輝く色彩が浮かびます。その色の粒は次第に形になって、居酒屋で働く母の汗する姿となり、また、酒席で赤い唇を開いて笑う私の顔になり、また、バーで奏でられた甘いピアノの調べになります。
「神様、決してつらいばかりではなかった。すべてに意味があった気がする」。私は目じりに涙をためました。「なによりも、あなたに出会うまで、死なずに生きてこられたのですから」。そう告白する私に、黄金の蜜が滴り落ちて、包んでくれるようでした。(つづく)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、東埼玉バプテスト教会の母教会である我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫4匹と共に暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。