イエス様、今日は母があなたによってこの世の労を解かれてから、5年目の日であります。この世の人は、どんな人も類にもれず、この世を離れる時を迎えます。私にとって、天の世界への思いは強く、あなたが生きられる世界に行く日は楽しみであり、しかしそれであっても恐れもあります。それは芋虫が蝶になるよりも、ずっと大きな変容の時であるのでしょうから。私にとって一番身近であった母であっても、その日をくぐり、あなたのもとへ召し入れられました。私のこの世での残された日々はいくばくでありましょうか。母の命日は特に、そのことに思いをはせずにはいられないのです。
やわらかで美しい母が、少しずつ命のハリを失い、年を重ねていった姿を思い起こしてゆくと、私の心は悲しみで曇ります。そのような私を慰めるように、私の肩をイエス様が抱かれることを感じます。すると、さくら色のはなびらで縁取られたさくら時計が、再びくるくると回り出し、イエス様が私を連れ立って、記憶の旅にいざなってゆくのです。
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私は高校をどうにか卒業させてもらい、母のお店を手伝っておりました。居酒屋に勤めていたはずの母は、いつの間にか小さな小料理屋を始めておりました。母がどのように私を食べさせてきたか、どうやってそのような店の資金を用意したのか、母は私に語ることはなく、謎に包まれた人でした。しかし、私もその頃は特に不思議に思うことなく、やることがないからとりあえず、母の店の手伝いを始めていたのです。
小料理屋とは名ばかりで、小ぎれいな居酒屋と言ったほうがよいかもしれません。客は仕事帰りの男性ばかりで、酒のつまみを作って、酒を売るばかりの店でした。
にぎわった店で、母の作る酒のつまみや酒の匂いを今でもよく覚えています。赤ら顔のお客たちは、会社のこと、家庭の愚痴、政治家たちをののしって、それはにぎやかにしゃべっていました。広いカウンターのある店で、母や私の立つカウンターに人気は集中しておりました。時に、あからさまに母に気があるお客さんもおりました。母は中年と言うにはまだまだとても美しかったのです。母は、時にはシャクヤクのように凛(りん)としてあった人でした。また時には、スイートピーのようにかわいげのある人でした。水仙のようにはかなげかと思うと、タンポポのように根を張って、逞しく働く女の姿を見せました。
「あまりお母さんには似ていないね」。よくそう言われました。それはそうでありましょう。母が私を生んだ年に私も近づいておりましたが、母のようになれる自信はひとかけらもありませんでした。私は相変わらず、この居酒屋で母の作ってくれるまかないにも手を付けず、‘ダイエット’ にばかり励む、現実逃避の甘えん坊でありました。手足は骨が浮き出るほどに瘦せましたが、顔は大きくむくんで、私はポピーの花のようであったとでもいいましょうか。細いずうたいに大きなお顔、小さな風で簡単になぎ倒されて、それでも翌朝にはけろっと立ち直っているところもさながらポピーのようでした。
「イエス様うそよ。母がきらいだったわ」。さくら時計の中で、私はふと口に出しておりました。私の腕には鳥肌が浮かび、嫌悪感が足元からぞわぞわと上ってくるのです。私の中の母のイメージが、人間さえ食べるというあのおどろおどろしい食肉花の姿に変わってゆきます。
「あの人は自分の好きにばかり生きたのよ」。そう言って震える私の心をイエス様の手は包み、なだめるように言いました。「そうだったね」。イエス様はじっと私を見つめていました。そのまなざしは悲しげで、涙の粒子を含んでいました。
母という人を私は結局分かることができませんでした。ある時はスイレンのように麗しく、キンギョソウのように可憐に思い出されましたが、いつかは食肉花のような姿で私までも食べ尽くそうとしたように思ったこともあるのですから。母は捉え所のないかげろうのようでありました。しかし、その母が遺したものを頼りにして、今私はささやかではあっても不自由なく暮らし、生きていられるのですから、母はなんとか私のために生きようとしていたのかもしれません。
いいえ、分かりません。結局は分からないままなのです。一番身近な母でさえ、本当のところは何も分かることなどできないほどに、人というものは複雑で、それは神秘的なほどであるのでしょう。
店は夕方の5時に開き、深夜までにぎわっておりました。それ故に私は朝方に寝て、午後に起きる暮らしに慣れきっておりました。夜中の2時ごろ店の掃除を済ませて、家路までの道が好きでした。街はすっかり眠りに落ちていて、人たちの喧騒は柔らかな寝息に変わり、静まった世界は ‘神様’ に支配されているようでした。もちろんその頃の私は、神様ご自身がこの世界にお生まれになって生きてくださったイエス様のことを知ることはありませんでした。しかし、夜の静寂、流れる雲、その向こうの星々、そして銀河の世界を支配する神様の息吹を感じていました。どぶ川のふちで揺れるキバナコスモスの群れも、神様の御手の中で安堵(あんど)するように風に揺られているように思いました。私も夜風に吹かれていると、何も心配などいらない、そんな気持ちになれるのです。
私はよく、不安感に襲われました。茫漠(ぼうばく)な世界が眼前に広がり、人生に畏れを抱いて足がすくむこともありました。それでも、人々の寝静まった夜の風は、絶対的なお方である神様の息吹を感じて安心していられたのです。
「その頃からずっと、あなたが私を守っていてくださっていたのね」。私はイエス様の胸にほほを寄せてそうささやきました。イエス様は笑って首を振るようでした。(もっとずっと前からだよ)そのほほ笑みはそう言うようでした。
人々の中に入ってゆくと、世界と切り離される痛みを感じました。友達もいないわけではなく、時に一緒に飲みに行くこともありました。恋の話や流行のアイテムについておしゃべりしては、お酒を何杯飲めるか競い合って遊びました。母娘で切り盛りしている小さな店はよく繁盛して、働くこともやりがいがありました。それでも、「私たちは結局どこへ行くのだろう」そんな漠然とした不安が心の深くに根差していました。命とは何であり、人間とは何者であり、死んだ後は私たちの命はどうなってしまうのか。その問いのすべての答えを持っているのは、イエス様でありました。しかし、私がイエス様に出会うのは、まだまだずっと先のこと。私はまだまだ、そんな茫漠とした不安を心に抱えながら、この楽しくて、窮屈な世界を歩いてゆかなければならなかったのです。
苦しみもあれど、快楽の多い人生でした。お店のお客さんに、高級な中華料理を食べに連れて行ってもらったこともありました。見たことも聞いたこともない料理が並んで、こんなぜいたくを知ってしまえる私は一体何者かと思いました。誘いは途絶えることはありませんでした。美容院で髪の毛をカールして、流行の服を着て、ブランドのバッグを肩にかけ、毛皮のついたコートを羽織り、街を闊歩(かっぽ)するようになった頃には、世界は自分のために回っている気さえしました。私は若いなりに美しく、得意げでした。この人生で、手に入らないものなどないような気がして、赤い口紅を塗った口を開いてよく笑うようになっていました。
心に欲望の火がちりちりと燃え出して、それはどんどん大きくなっていったのです。派手な遊びを覚えるたびに、自分が特別な人間になったような気がしました。たいていの人はこんな喜びは知らず、凡庸な人生を生きているのだと思っては、冷たいまなざしを持ちました。…そして、私はどんどん高ぶりの階段を上り始め、少しずつ孤独になっていったのです。しかしそんなことにも気付かずに、私は自分の人生に夢中になっておりました。もう神様のことなど考える必要もないくらい、このにぎやかで華やかな毎日に没頭していったのです。(つづく)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、東埼玉バプテスト教会の母教会である我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫4匹と共に暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。