「隠れキリシタンの里」などとも呼ばれる長崎県の外海(そとめ)地方のキリシタン追放を図った大村藩が、1790年代(寛政年間)に五島藩と「百姓移住協定」を結び、最終的には約3000人のキリシタンが五島に移住したという史実を裏付ける家系図がこのほど、五島市松山町の民家で発見された。見つかった家系図は複写され、長崎市西出津町の外海歴史民族資料館に寄贈された。長崎新聞が伝えた。
家系図「三代書き」が見つかったのは、五島市松山町の自営業・平山城司さんの実家(同市平蔵町)。平山さんの母の赤尾スエミさんが見つけた。同紙によれば、家系図には「先祖御届」と記され、平山さんの2代前から5代前までが記載されていた。5代前はちょうど今から約200年前に相当し、移住があった1800年前後とほぼ一致する。5代前の人名には、個人名と洗礼名が書かれており、外海出身であることを示す記述も見られたという。見つかった家系図は今後、同資料館で展示される予定。
大村藩の初代藩主である大村喜前の父・純忠は日本初のキリシタン大名として有名。1582年(天正10年)には、大友宗麟、有馬晴信ら他のキリシタン大名とともに天正遣欧少年使節をローマに派遣するなどした。
しかし、喜前はドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンであったが、熱狂的な日蓮宗徒であった加藤清正の薦めもあってキリスト教を捨てて日蓮宗に改宗、領内のキリシタン弾圧を行った。また、第4代藩主・純長の時代の1657年(明暦3年)には、領内で多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕される事件が起きた。禁教令が公布されてから45年が経過した後の出来事で、藩の存亡を揺るがす重大事件となった。そのためこれ以後、大村藩ではキリシタンに対する徹底した探索が行われ、仏教や神道に対する信仰強化が行われた。