世界的に著名な神学者で、邦訳書も多数出版されているアリスター・E・マクグラス氏がこのほど、新著『遠い国からの帰還』(原題:Return from a Distant Country)を出版した。キリスト教の家庭に生まれながらも、若い頃にマルクス主義に傾倒し無神論者となった自身が、そうした「遠い国」からどのようにしてキリスト教信仰に立ち戻ったのかを記している。
英出版社「ダートン・ロングマン・アンド・トッド」の新シリーズ「私の神学」を構成する一冊。同シリーズでは、著名な神学者たちが、その神学的信条を形作る上で受けた個人的、知的な影響が取り上げられている。
1953年に北アイルランドのベルファストで生まれ、アイルランド聖公会で洗礼を受けたマクグラス氏は、70年代にオックスフォード大学で化学と生物学を学んだ後、神学に転向した。現在は、同大のアンドレアス・イドレオス科学・宗教学教授を務めている。ベストセラーとなった著書として、無神論者の生物学者リチャード・ドーキンス氏による『神は妄想である―宗教との決別』の主張を一つ一つ検証した『神は妄想か?―無神論原理主義とドーキンスによる神の否定』などがある。
英国クリスチャントゥデイ(英CT)は、マクグラス氏にインタビュー(英語)を行い、新著について、また教会生活と証しにおいて優れた神学がいかに重要かを聞いた。
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英CT:新著の冒頭で、「私はキリスト教の神学者になるとは思っていませんでしたが、それは主に、クリスチャンになるとは思っていなかったからです」と述べていますが、70年代のオックスフォード大学での学生時代に、キリスト教に引かれた最大の理由は何だったのでしょうか。
マクグラス:オックスフォード大学に入学したとき、私は無神論者でしたが、無神論は本当に自分が考えていたほど単純で合理的なものなのか、疑問を感じ始めていました。大学の無神論者の友人たちが、彼らの信念の正しさを証明できないことが明らかになるにつれ、私の疑問は大きくなりました。無神論は信仰の問題であり、証明可能なものではないということが次第に分かってきたのです。
友人たちは、神はいないと信じていましたが、それが正しいことを証明できませんでした。私は10代の頃、無神論の見かけの確かさに引かれていましたが、今になって、それも実際には信仰であることを理解し始めました。多くのクリスチャンの学生や学者と出会い話をするうちに、自分がキリスト教を誤解していたことに気が付きました。
私が10代の頃に無神論者だった理由の一つは、神はまったく自分に関係のないものだと考えていたからでした。神は天におられますが、私は地におり、時間と空間のただ中にいるのです。神は私の世界とは何の関係もなく、私の世界に存在もしておらず、私と関係のあることを語ることも、行うこともできないと考えていました。
しかし、オックスフォード大学のクリスチャンの友人たちが、私にキリスト教の教義である受肉(神が人の形をとって現れること)について教えてくれました。もしもこれが正しいのなら、それは劇的な転換点になると思いました。神は遠く、無関係な存在ではなく、キリストにあって、私が存在する時間と空間の世界に入り込むことを選ばれたのです。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。私は突然、クリスチャンがなぜキリストを信仰の中心に据えるのかを理解しました。
神がどのような存在かを問われれば、私たちは、神の性質と「顔」とを見せてくださるキリストを指し示すことができるのです。私たちは、神の特徴を知るだけではなく、その「顔」を見ることができます。神はキリストに似ているのです。キリストは「見えない神の姿」(コロサイ1:15)なのです。
英CT:「私にとって神学とは、聖書と、聖書に忠実に関わってきた長い伝統、そして礼拝と祈りの実践とに根ざした、キリスト教信仰の思慮深い営みです」と書かれていますが、現代の神学者の中には、聖書に啓示された主の真理よりも自身の考えを優先させる人がいるようです。キリスト教神学者としての活動の中で、このようなことを避けるためにどのような努力をされてきましたか。
マクグラス:私にとって聖書は、神学と信仰生活の出発点です。そして聖書を読むとは、時代を超えて知恵を伝えてきたクリスチャンたちと共に読むことです。彼らは私たちが聖書を理解し、聖書を私たちの考え方や生き方に結び付けるのを助けてくれます。
神学は謙虚さが大切です。神学とは、私たちが文化から得た神についての考え方を「学び直す」ことであり、聖書的な神についての考え方が、私たちの人生と思考を再形成するのを許すことです。だからこそ、礼拝で聖書を朗読することがとても重要なのです。それは、私たちが神やキリストについての考えを作り上げるのではないということを思い出させてくれます。私たちは、聖書を読むことによって、神やキリストを学び、そこで得たことと私たちの生活や考えを一致させようとするべきなのです。
私にとって神学とは、聖書の豊かな内容を解き明かし、その中心にある「大きな絵」を紡ぎ出すことです。単に個々の聖句に注目するだけではありません。神学は、それらを「大きな絵」を紡ぎ出すための「糸」として捉えるのです。
確かに神学者の中には、聖書に十分な注意を払わない人もいます。しかし、キリスト教神学の歴史を学べば、初期の神学者にとって、特に信仰が始まってから数世紀の間、聖書がいかに中心的な存在であったかが容易に分かります。
この時代の神学書の最も一般的な形態の一つは、聖書注解でした。神学者たちは、聖書との密接で絶え間ない対話の中で、自分の考えを発展させていきました。私もそれを目指しています。
それには知的な謙虚さが必要で、私たちは神がどのような方であるべきかという自分の考えを捨て、神がどのような方であるかを学ばなければなりません。それは、聖書の証しに深く注意を払うことを意味します。
英CT:「神学はつまらない。私を興奮させるのは、キリスト教信仰の生きた経験です」と言うクリスチャンに対してどう答えますか。
マクグラス:その気持ちはよく分かります。長年にわたり、多くの一般のクリスチャンが、神学のいわゆる「奇妙な語彙」「知的な内向性」「現実の信仰生活との断絶」などを理由に、神学から遠ざかっていることを私に話してくれました。その意味はよく分かります。
神学では、しばしば日常生活とはあまり関係のない言葉が使われ、それらは新約聖書の言葉とかけ離れているように思えます。ある種の神学は、世に知られていない問題を議論している無名の人々の名前を読み上げるようなものに見えます。しかし、必ずしもこれらのようである必要はないのです。
究極的に神学は、私たちの信仰の中心にある、神と人生についての説得力のあるビジョンを示すことを目的にしています。神学は、私たちの礼拝を支え、私たちの伝道に情報を与え、私たちの個人的な信仰を深める助けとなります。
神学は、私たちを興奮させるものであるべきです。それはより深い信仰へと憧れさせ、それについてもっと知りたいと思わせ、私たちがどのようにしてそれをより広い世界に伝えることができるかを考えさせるものなのです。これらの特徴は、アタナシウスやアウグスティヌスなどの初期の神学者の著作に見ることができます。
多くの信徒や聖職者が、日常的な関心事から切り離されたようなアカデミックな神学に対して疑問を抱く気持ちはよく分かります。それ故に、ほとんどの神学者が、教会や信仰共同体の幸福のために熱心に取り組んでいることを理解するのは重要です。
キリスト教神学はその長い歴史において、主に思慮深い専門家たちの働きによって発展してきました。つまり、信徒を教育し、信仰の成長を助けることに熱心な司教や牧師、キリスト教の祈りと霊性の真の生活を発展させることに関心のある修道士たちの働きにより発展してきました。
私たちは、彼らから多くのことを学ぶことができます。彼らは信仰の道を旅する仲間であり、私たちが旅をするときに導きと励ましを与えてくれるのです。
英CT:自然科学とキリスト教信仰をどのようにして結び付けることができるかを、70年代によく考えていたことが書かれています。キリスト教と科学は相いれないと主張する人たちに、どのように答えるでしょうか。
マクグラス:素晴らしい質問です。私はオックスフォード大学で科学者だったのですが、方向転換して神学者になりました。10代の無神論者だった頃は、科学と信仰は両立しないと考えていました。しかし、今はそうは思いません。
まず、キリスト教と自然科学は異なるものですが、だからといって相いれないものではないと指摘しておきます。科学と倫理はまったく異なる考え方ですが、だからといって科学者が倫理を真剣に考え、良い人生を送ろうとできないわけではありません。
20世紀の最も有名な科学者であろうアルバート・アインシュタインは、科学、宗教、倫理を自分の人生の異なる側面として捉えていました。これらはすべて、彼がこの世界を理解し、その中で有意義に生きていくのに必要なものでした。
科学は、私たちの世界がどのように機能しているかを理解するのに役立ちます。キリスト教は、人生の意味や良い人生を送るための方法に焦点を当てます。どちらも重要ですが、両者は異なります。2つの異なるレンズのようなものです。
本当の問題は、科学者や神学者が「自分は重要なことはすべて知っているから、他のことを知る必要はない」と言ったときに始まります。この点については、哲学者のメアリー・ミッジリーがとても参考になります。彼女は、私たちの複雑な世界を理解するためにはさまざまな道具箱が必要であり、個々のどの道具箱もすべての疑問に答えることはできないのだと説明しています。私たちは、これらの異なる道具箱を使用し、それらの洞察をまとめる方法を見つける必要があるのです。
もし私たちが自分自身を一つの道具箱、たとえば科学だけに限定してしまうと、人生についての視野は非常に狭く、不十分なものになってしまいます。科学は人間として、私たちがどのように機能しているかを理解するのに役立ち、それは医学的にも重要です。しかし神学は、私たちのより深いニーズを理解するのに役立ちます。神学は、私たちが「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」(ウエストミンスター小教理問答・第1問)方法を学ぶ上で、霊的に重要なのです。
英CT:歴史は、キリスト教が国やより広い地域から消えてしまい得る、少なくとも世間の目から消えてしまい得ることを示しています。英国におけるキリスト教の将来について楽観的ですか、それとも悲観的ですか。また、いずれの場合もその理由を教えてください。
マクグラス:新型コロナウイルスによる危機に対する教会の応答は、非常に明快だったと思います。私の認識では、この困難な時期に教団の指導者はあまり登場しませんでした。危機に対する信仰上の対応について、彼らからはほとんど何も聞くことがありませんでした。
しかし、個々の教会や信徒は、地域社会との関わりや司牧関係の維持、そしてより広い文化との関わりにおいて、しばしば非常に効果的に働きました。
私は教会の指導者たちが、まるで新しい教会を建てることですべてが解決するかのように教会成長を目指し、未検証の経営戦略に過剰投資しがちなことを心配しています。
神学とは、福音の何がそんなに人を興奮させ、魅力的なのかを明らかにし、それをどのようにして私たちの文化につながる言葉にするか、そして信仰がどのようにして維持され、どのようにして礼拝や説教を通して豊かになるのかを明らかにするものです。このようなビジョンこそが、人々を信仰へと導くのです。
もしも私たちが、私たちの信仰の中心にある愛と変革に満ちた神のビジョンを失ってしまったら、私たちは世界に提供できるものが何もなくなってしまいます。これは米国聖公会に起こったことです。今月発表された統計によると、米国聖公会は急激に衰退しているとのことです。
これらの教会は、包摂的で歓迎に満ちているかもしれません。しかし批評家からは、キリスト教信仰の中心的なテーマを見失っており、高齢化した信徒の一部が通い続けることに存続を頼っている、空っぽの殻に過ぎないと指摘されています。
しかし、慎重にですが、私は楽観的な見方をしています。なぜなら、福音を私たちの文化と結び付ける方法を理解し、私たちを通して、また私たちの中で働く恵み深い神のビジョンが、私たちをどこへ導くのかに興奮している、インスピレーションに満ちた説教者や牧師を数多く知っているからです。
私の考えでは、説教とは燃え盛る神学です。説教はこの素晴らしい神のビジョンを捉え、それがどのように人生を変え、意味を生み出すかを示すことができます。私たちはこの困難な時代に、このようなテーマにこそ耳を傾ける必要があります。