今や「ツイッターの寵児(ちょうじ)」に収まらないMAROさん。『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』を講談社から発刊して以来、毎年のように新刊を出している。私の大学の講義にも時々登場してもらっているため、とても身近な存在としてお付き合いさせていただいているが、実はとんでもない「売れっ子作家」である。まだサインを頂いたことがないので、次回会うときには色紙を持参しようか、と思っているくらいだ。
さて、新刊『聖書を読んだら哲学がわかった』は、今までの「キリスト教」「聖書」モノから若干外した(あえてそうしているのは、本書を読めば分かる)テーマを扱っている。それは「哲学」。しかし、MAROさんが慶応義塾大学文学部哲学科の出身であることを知るなら、むしろ「本卦還(ほんけがえ)り」したと考えるのが正しいかもしれない。
本書は5章立てになっている。1章で自身の思想遍歴(どうしてクリスチャンになったか)を開陳し、お得意の「ざっくりと本質をつかむ」やり方で、「哲学とは何か?」を明確に定義している。MAROさんにかかると、哲学は次のように表現されることになる。
哲学とは、“あたりまえ” の学問である。(42ページ)
哲学とは「自分なりの “あたりまえ” を持つこと」ではなく「“あたりまえ” を変える力」のことです。(49ページ)
いわゆる「哲学者」と呼ばれる特殊な人々が存在するのではなく、私たち一人一人が「あたりまえ」と思っていることに疑問を感じ、それを考え始めたときから、私たちもまた「哲学している」ことになる、とMAROさんは励ましの言葉を投げ掛ける。それは自身の思想遍歴においてもそうであるし、また「聖書」およびこれに基づいて歴史を紡ぎだしてきた「クリスチャン」、または「西洋人たち」もまた同じ過程を経てきたことを語っている。
続く2章では、聖書の成立に大きく影響を与えたとされるギリシャ哲学を取り上げている。そして3章では、キリスト教誕生時から中世に至るまでの哲学(MAROさんの言葉では “あたりまえ”)の変化を語っている。さらに4章では、近世以降の哲学者と聖書の関わりに言及し、5章では現代的な私たちの問題との関わりを物語っている。
つまり本書は、哲学という切り口で「聖書」の本質と「キリスト教史」の概要を、まさにMAROさんのお家芸である「ゆるく、ざっくり、かつ的確に」まとめ上げた一冊となっているのである。
1章から4章までに取り上げられている哲学者やその思想を「解説する」本はちまたにはあふれている。しかしMAROさんのように、それを聖書というレンズで捉えなおし、さらにそこで語られている本質を、独自の「たとえ」を用いながら分かりやすく解説している哲学本は、他に例を見ないだろう。その白眉が3章2節の「イエス・キリストが示した新しい “あたりまえ”」である。
世界史上、この人ほどたくさんの “あたりまえ” を壊し、新しい “あたりまえ” を提示した人はいないでしょう。(P132)
そして、この次のページに掲載されているイラストがまた見事である。これは直接本を手に取って確かめてもらいたい。
しかしここまでであれば、「ちょっと毛色の違うキリスト教啓蒙書では?」と思われてしまうだろう。だが本書が、今までの「キリスト教」「聖書」モノから若干外しているのは、5章で畳みかけるように提示される現代的な問いに、哲学的に向き合うMAROさんの姿勢にある。まさに「 “あたりまえ” を変える力」として、著者のMAROさん自身が「哲学している」のがこの部分である。
具体的には、5章2節の「相対主義と『分断の時代』」である。私たちの世界観(いわゆる “あたりまえ”)が相対主義を称揚し、「人それぞれということにしよう」と言い出した結果、「『言葉』の “あたりまえ” がひっくり返った現代」を迎えてしまった、と語られている(P236)。この分析には脱帽した。現代が「分断の時代」と呼ばれ、その在り方に対する警告が発せられている。にもかかわらず、人々は新型コロナウイルスの問題や米国の人種差別をめぐる問題、そして日本国内では「上級国民」うんぬんといった議論が姦(かしま)しくなり、状況は整理されるどころか、ますます混迷の色合いが深まっている。この現状をどう捉え、何が変化しているのかについて、誰も明確で分かりやすい提示をしようとしていない。
だが、MAROさんは「言葉」の発し方、受け止め方を「ダイヤモンドとそれを発掘しようとするツルハシ」のたとえで見事に喝破している。これは哲学的思考のなせる業であり、こういった現実的な問題への「認識のまなざし」を提供することこそ、哲学に与えられた使命であることが見て取れる。MAROさんがどんな言葉で語っているか。それは本書をぜひ手に取って確かめてもらいたい(237ページの1行目で明確に語られている)。
本書は、クリスチャンが視野を広げるのに適した一冊である。同時に、多くの “あたりまえ” の前に途方に暮れ、自分のこれからをどう考えたらいいのか、という「漠然とした悩み」を抱えている多くの日本人に対し、「こんな解決法、こんな道もありますよ」と、ゆるく、面白く、そして真面目に提示してくれる良書である。
■ MARO著『聖書を読んだら哲学がわかった―キリスト教で解きあかす「西洋哲学」超入門』(日本実業出版社、2021年9月)
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