「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)
ある大富豪が自分の家でガーデンパーティーを開いています。しかし、どう見ても人が多すぎます。招待されていないのに、豪華な食事を目当てに紛れ込んだ人がいるようです。そこで、主人が集まっている人に声を掛けました。「今日はよくいらしてくださいました。ところで、新郎のご友人の方と新婦のご友人の方、恐れ入りますがちょっとお立ち願えませんか」
すると、何人かの人が立ち上がりました。そこで主人は言います。「今、お立ちになった方はすぐにお帰りください。今日は娘の誕生パーティーを祝っておりますので」
皆さんもパーティーに潜り込むときには、何のパーティーかを確認してからにすることをお勧めします。
ところで「クリスチャン」とはどんな人のことでしょうか。「クリスチャン」とは「キリストに属する者」「キリストに従う者」という意味です。それは単に聖書の教えに同意しているとか、クリスチャンらしいライフスタイル(礼拝に出席する、聖書を読んだりお祈りをする、奉仕や献金をする)を保っているとかという以上のことです。極論すれば、本物のクリスチャンとは「本気、やる気、死ぬ気のあるクリスチャン」と言ってもよいと思います。
親元を離れて大学に通っている青年がクリスチャンになり、休暇を利用し家に帰り、両親にクリスチャンになったことを伝えました。すると、地元のお寺の檀家総代を務め、地域の神社の氏子総代を務めている父親は大反対です。どんなに説得しても聞く耳を持ってくれません。青年は失意のうちに大学に戻りました。
しばらくして、父親が交通事故に巻き込まれ、病院に運ばれました。青年が急いで病院に駆け付けると医者に言われます。「最悪の事態を覚悟してください」
病室に入ると、父親が気が付いて苦しみの中から頼みます。「オレの最後の頼みだ。キリスト教はやめてくれ。ご先祖様に対して申し訳ない、頼む」。そばにいた伯母が小声で言います。「アンタ、お父さんの最後の頼みだから聞いてあげて。うそでもいいからやめると言って、お父さんを安心させてあげて」
しかし、青年は言います。「やめるというのはうそだから、うそはつけない」。その後、父親は奇跡的に回復します。そしてある日、父親は母親にポツリと言ったのです。「アイツの信仰を認めてやろう。アイツの信仰は本物だ。親の最後の頼みだからと言って、やめるような信仰は本物じゃない。しかしアレは本物だ」。その後、この父親は息子の語るイエス・キリストの福音に少しずつ耳を傾けるようになり、数年後に信仰告白をし洗礼を受けたのです。
神は本気で信じ、本気で従う者の祈りを必ず聞き届けてくださるのです。
韓国に非常に伝道熱心な女性がいます。毎日公園やデパートに出掛け、暇そうな人を見つけては、イエス・キリストの福音を語ります。彼女を通して信仰を持った人は毎年50人以上にもなります。その彼女が交通事故で1カ月入院することになりました。もう出掛けていって伝道することはできません。しかし、彼女の伝道意欲は止まることを知りません。彼女は入院中に、アルバイトの学生を雇いました。
「アルバイト募集。時給1万ウォン。本の朗読をお願いします。ただしクリスチャンでない人、希望」。彼女は病院のベッドのそばで聖書を読んでもらいます。そして大切な箇所に来ると、聞こえなかったふりをして「すみません、そこをもう一度ゆっくり読んでくれませんか」と言って繰り返させるのです。
こうして福音書を読み終える頃には、アルバイトの学生を信仰告白へと導くのです。こうして1カ月の入院中に8人の学生を救いに導いたのです。本気、やる気、死ぬ気で生きているクリスチャンに対して、神も本気で応えてくださるのです。
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