「おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう』と言ったが、そこに主がおられた」(エゼキエル書35:10)
エドムは、ユダとイスラエルの2つの国を占領して、植民地にしようと企てました。そこには大きな障害があるのに、彼らはそれに気付きませんでした。それは「主がおられる」という事実です。ユダはバビロニア軍に敗れた後なので、その勢いに乗って国を奪えると考えましたが、それは実現することはありません。そこに主がおられたからです。
イスラエルは、約2千年間国を失っていましたが、主がおられたので1948年5月14日に再び国を再興し、今に至っています。世界中のどこに、このように国を再興できた国があるでしょうか? 主が共におられたので、それが実現したのです。
主の手法は、いったん引き抜き、倒し、滅ぼすことはあっても、再び再興させてくださるのです。イスラエルが良い実例であり、私たちも良い実例です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)
古い罪の性質を持った私たちは、キリストの十字架と共に死に、葬られましたが、キリストと共に復活して、すべてが新しくされました。
なぜいったん死ぬ必要があったのでしょうか? 罪とは、神から分離された状態です。罪の性質に死ななければ、主が共にいることができないからです。私たちは、弱く、足りなく、箸にも棒にもかからないような存在として見る人がいるかもしれません。エドムがユダの国を見たようにです。しかし、そのユダには主がおられました。同じように、主はあなたと共におられます。
悪魔はあなたを罪に誘惑し、罪の奴隷として、再び占領しようともくろんでいますが、それはかないません。主が共におられるからです。コロナ禍の時代、多くの教会は経済的に、実際的に存続の危機に危ぶまれています。しかし、荒廃としたユダの国に主がおられたように、教会には主が共におられます。教会が倒れ、潰れ、なくなることはありません。
今日、あなたの人生の中に主がおられます。あなたが自分自身をつまらない者と考え、人生を悲観しても、主は共におられます。「主がおられるから大丈夫」。考え方を変え、主に頼りながら歩んでいきましょう。
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