「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(出エジプト記17:11)
「モーセが手を上げている」とは、モーセが祈っている姿を指します。モーセの祈りは、実際に現場で戦っているヨシュア以上に大きな力がありました。もちろん、モーセのとりなしの祈りも、ヨシュアの戦いも、両方大切なことは言うまでもありません。しかし、戦いの優勢劣勢、勝敗が祈りにかかっていたという点はとても大切なことを教えています。
戦いには、実際の戦いとともに、その背後での祈りの戦いという両面があるのです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブル12:4)。罪との戦いは、血を流すような熾烈なものです。しかし、その戦いの重要な側面は、密室での祈りです。イエス様は、十字架を背負う前にゲツセマネの園で血の汗を流し、滴らせながら、決死の祈りの戦いをされました。
祈りの戦いと実際の戦いではどちらが大変でしょうか。モーセの祈りの戦いは、疲れてしまい、アロンとフルの助けが必要でした。しかしヨシュアの戦いは、一言も疲れたとは書かれていません。ただ「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った」(出エジプト記17:13)とだけ書かれています。神の働きの輝かしい勝利は、誰かのとりなしの祈りが背後であるのです。物事は、表面的にだけ見るのではなく、その背後にある祈りの戦いにも目を向けるべきです。そしてぜひ、その祈りの戦いに参戦していただきたいです。
私の神の働きの奉仕のために祈ってください。そして、あなたの近くで働く牧師や奉仕者のために祈りましょう。祈りの戦いを続けることはたやすいことではありません。眠くなったり「祈っても無駄だ」という失望がやってくるからです。あなたの祈りの左右の手を支えるのは、信仰と希望と愛です。信仰と希望があなたの両手を引き上げ、愛があなたの心に火を燃やし続けます。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(1コリント13:13)
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マルコ14:38)
「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう」(1サムエル記12:23)
祈りの召しに応えて、祈る人にさせていただきましょう。
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