イエス様は、「(律法学者、パリサイ人たちは)広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです」(マタイ23:7、8)と語られました。
この聖書箇所から「聖書に『先生と呼ばれてはいけない』と書かれているのに、どうして教会では『牧師』が『先生』と呼ばれているのでしょうか。おかしくないですか?」と疑問を持つ人がいます。
確かにそうです。その理屈は正しいです。しかし、この聖書箇所で「先生」と訳された言葉の原語は「ラビ」です。ユダヤの教師を意味する呼称であり、専門用語です。対して、日本語で使う「先生」は、医者、教員、弁護士、政治家などでも使われる一般の敬称です。ですから、敬意を持って「先生」と呼ぶことに対して、なんら問題はないのです。
イエス様が語られた言葉の真意は、律法学者やパリサイ人たちが公の場で「ラビ」と、権威ある称号で呼ばれることを喜ぶという高ぶった心を戒めたのです。そして、ラビには絶大な権威、権力が伴っていました。何と、弟子たちの生活にまで口を出し、その権威が及んでいました。特権階級です。対して牧師の権威は、聖書を真っすぐに語るというところに限定されています。
最後に、日本では目上を尊敬する文化があります。敬意を込めて「牧師」を「先生」と呼ぶことと、イエス様のこの教えに矛盾はありません。また聖書は「神の言葉を教える人を尊敬しなさい」とも教えます。
「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」(1テサロニケ5:12、13)
イエス様が教えられた言葉の真意を要約すると、聖書が教える以上の権威を持つことを戒めていることと、謙遜を目指すべきだということです。
「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません」(マタイ23:11)
そして、キリストは自らその教えを実践されました。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6〜8)
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