公開からわずか3日で340万人以上が劇場に足を運び、興行収入の新記録(3日で46億円超)を達成した大ヒット作、それが「劇場版『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』無限列車編」(外崎春雄監督)である。全国403館で公開された本作は、TOHOシネマズ新宿では1日に11スクリーンで計42回も上映されるほどの盛況ぶり。限定グッズ売り場にできた長蛇の列は途切れることなく、入場者に配布されたコミック本は高値でネットオークションにかけられている。
ここまで大勢の人に受け入れられたのはなぜか。これをキリスト教の牧師として分析しないわけにはいかないだろう。いやしくも大衆伝道を最優先事項に掲げている福音派牧師としては、決して捨てて置けない事態、避けては通れない作品である。
物語の世界構造は至極単純。太陽の光のみが唯一の弱点である「鬼」と、彼らを退治するために鍛え上げられた人間の集団「鬼殺隊」との死闘が柱となっている。時代は大正時代。鬼たちは、首を切られなければ死ぬことはなく、たとえ肉体の一部を破損しても程なく再生してしまう。だから鬼殺隊は凄まじい鍛錬を積み、技を磨き、一撃必殺で鬼の首を狙わなければならない。要は、善(鬼殺隊)と悪(鬼)とのガチンコ勝負である。
原作漫画の中でも特に人気のあるエピソードを劇場化した本作は、「責任感」をめぐる物語となっている。前半は、シリーズ全体の主人公である竈門炭治郎(かまど・たんじろう)とその仲間たちが活躍する話である。列車を乗っ取り、乗客を人質(と言っても、鬼が食べるための食料!)にして挑んでくる鬼と、鬼殺隊の一員となった主人公たちの戦いが描かれていく。最後は「友情・努力・勝利」という「少年ジャンプ」漫画の三大原則に則り、見事に鬼を倒す。だが、ここからが本作の本当のクライマックスの始まりとなる。
後半は、主人公たちの先輩格である煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)の物語となっていく。突如現れた鬼のナンバー3相手に、文字通りの死闘を挑んでいくことになる。そして炭治郎たちは、彼らの高レベルな戦いをただ眺めることしかできないのである。
この戦いは、圧倒的に人間側が不利である。なぜなら、鬼は何人殺そうとお構いなしだが、鬼殺隊のメンバーは乗客から被害を一人も出してはならない、という縛りが存在する。その上で鬼を倒さなければならないのだから。この縛りは、物語全体を通して人間たちを常に不利な状況に陥らせる。鬼はいくら手や足を切られてもすぐに再生する。しかし人間は、四肢を一度でも食いちぎられるとそうはいかない。
このことを、猗窩座(あかざ)と名乗るナンバー3の鬼は、杏寿郎に語り掛ける。「人間なんてやめろ。俺と同じ鬼になれ。そうしたら、もっと戦える。けがしてもすぐに再生できる」と。その通りである。どんなに傷を負ってもすぐに回復できるなら、どんな無茶な技を繰り出しても傷つくことを気にする必要はない。ダメだったら何度でも回復してやり直せばいいのだから。それはまるで、何度も回復できるシューティングゲームの主人公のようなものである。
だが、鬼殺隊の「柱」(隊全体の幹部クラスの意味)である杏寿郎はこれをキッパリと拒否する。「限りある命だからこそ、尊いのだ」と。
このやりとりを聞いていて、両者の違いは何だろうと思いをはせた。本作最大のクライマックスで詳らかにされたのは「責任感と無責任の相克」である。「人間が異形なるやからと戦う」という物語は、手あかのついた構図である。しかし本作で描かれる対立構造は、人間の心の中の葛藤をメタファー化したものと捉えることができよう。
本作に登場する鬼たちは、基本的に悪行の限りを尽くす。しかも力なき弱き存在を完全に見下し、半ば遊び半分にその命をなぶり殺しにする。炭治郎たちによって退治された夢を操る鬼、魘夢(えんむ)は、終始相手を小ばかにした言動をやめようとはしない。そして、乗客が何人死のうが、まったく意に介さない。なぜなら、彼は何に対しても責任を取る必要がないからである。つまり、無責任なのである。
後半に登場する鬼、猗窩座も然(しか)りである。彼は限界の枠内でしか生きられない人間を見下す。そして何度も切り落とされた手足を再生させる。彼は自らの体に対しても「無責任」でいい。ダメなら別の新しい四肢が生えてくるのだから。ここに悪の本質を見た。
鬼が暗闇を好み、太陽の光の下、白日にすべてをさらされることをことさら忌み嫌うのは、彼らの本質に巣食う「無責任」さが露わになることに耐えられないからだろう。そして四肢が何度も再生するのは、悪しき「無責任」がいつの時代にも存在し、いつしかそれが人間の心をむしばんでしまうことを示している。
一方、そんな鬼たちの「無責任」と対照的なのが、鬼殺隊の柱、杏寿郎である。列車の乗客の命を守り、鬼殺隊の後輩である炭治郎らを守り、その上で鬼たちを退治しなければならない。いつ刀を投げ出し、「もうやめた」と言ってもいいはずなのに、彼はそうしない。満身創痍(そうい)になりながらも自らを鼓舞し、後輩たちを「きっと立派に成長できる!」と励まし続ける。その懸命な姿に私たちは涙することになるのだが、その本質は、自らの立場と使命に対する「責任感」である。「責任感」は、何度もやり直しがきく人生では生じてこない。たった一回きり、限りある命だからこそ、どうしてもやり遂げなければならないと思えるし、どんなに劣勢に立ったとしても、守らなければならない人のため、自分に続く後輩たちのため、意志を貫き通そうと思えるのである。
「無責任と責任感」、これは人間の心の中にある葛藤が顕在化したものであろう。つまり、本作に登場する鬼とは人間の悪しき心、キリスト教的に言うなら「罪」の具現化である。それは、禁じられた善悪の知識の木の実を食べたアダムが、神から「なぜこんなことをしたのか」と問われたとき、「この女が私に食べさせたのです」と答えた無責任さと軌を一にするものなのである。
一方、杏寿郎の矜持(きょうじ)となった「責任感」は、圧倒的不利な状況で、命を投げ出しても守らなければならない者への「愛」の具現化である。心身ともに鬼よりも弱く、そして簡単に無責任にのみ込まれてしまう市井の人々のために、己のすべてをかけて立ち向かうその姿は、聖書において描かれるイエス・キリストの生きざまを彷彿(ほうふつ)とさせる。
杏寿郎が「柱とはこうあるべし」と身をもって後輩たちに示したことで、やがて炭治郎らは鬼殺隊の立派な剣士となっていく。これは、キリストの弟子たちが「クリスチャン(キリストに倣う者)」と呼ばれるようになった出来事に似ている。
また杏寿郎の姿は、いつまでたっても教勢率1パーセント未満といわれ続けている日本の中で、孤軍奮闘しリバイバルを夢見ながらその生涯を終えた先輩クリスチャンたちの姿とも重なるところがある。炭治郎たちをバカにする鬼に対し「きっと彼らは強くなる。立派な鬼殺隊のメンバーとなる!」と言い切った彼の姿に、私は先輩牧師たちの生きざまを重ねずにはおれなかった。
「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は、善と悪の戦いを骨太で見事な冒険活劇に昇華させた渾身(こんしん)の一作である。クリスチャンだからこそ感じられるさまざまな刺激がきっとあるはずだ。それを教会の仲間たちと熱く語り合ってみてはいかがだろうか。
■「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」予告編
◇