「日本の教会はかつて、戦争に反対せず協力した。だから、日本の教会には戦争責任がある」
この命題は真だろうか偽だろうか。一見、正しそうに見えるかもしれない。実際に戦時中は、宗教団体法によりプロテスタント諸派が合同して日本基督教団が生まれ、軍用機を献納するなど、文字通り戦争に協力した。これはカトリック教会も同じである。しかし、終戦から75年が経過し、日本の教会は文化的、人種的、歴史的に大きく多様化した。その中には、戦争に協力した歴史に連なっていない教会もあり、海外の教会で信仰に導かれてクリスチャンになった人もいる。彼らは「日本の教会の戦争責任」とは直接は関係がない。日本の教会と太平洋戦争の関係を考える文脈で、「日本の教会」という概念から、彼らを無意識に除外してはいないだろうか。戦時中の日本の教会とは歴史的に関係のない経緯で戦後誕生した教会やクリスチャンたちを。
戦争責任に関係のある教会と関係のない教会。この2つのカテゴリーの教会を合わせてはじめて「現代の日本の教会」になる。「日本の教会」で想起される内容が、「戦争に協力した歴史のある特定の日本の教会」から「多様性のある現代の日本の教会」に変わるとき、「日本の教会の戦争責任」という言葉は普遍性を失う。戦争責任を告白しなければ日本の教会にあらずという踏み絵を踏まされるいわれは、彼らにはない。いみじくも日本の教会なら戦争責任を深刻に認識すべきだとは、彼らには言えない。
では彼らは、どんな教会、どんなクリスチャンなのだろうか。一体、日本のどの教会が「私の教会は戦争責任とは関係ありません」などと主張しても、ひんしゅくを買う筋合いがないといえるのだろうか。
まず頭に浮かぶのは、戦後つまり1945年以降、海外の宣教師によって開拓された単立教会や教団・教会連合を形成した教会だ。日本に所在しつつも海外の教団に所属している教会も挙げられる。
戦後、日本に移住した在日外国人によって形成された教会もそうだろう。日本には、在日インドネシア人教会や在日フィリピン人教会、在日ブラジル人教会など、在日外国人による教会が幾つもある。1桁や2桁の礼拝出席者数で存亡の機に直面している「日本の教会」もあるというのに、彼らの中には百人単位の人が集まり、礼拝をささげているところもある。この他、海外の特定の地域出身の人が会衆のほとんどを占める伝統教派もある。
クリスチャン個人で見ると、より多様だ。海外の教会で救われ帰国後は日本の教会に通っている人、日本人と外国人を両親に持つ国際結婚の家庭で生まれた人、両親とも日本人ではないが、家族で日本に移住し自身は日本で育った外国籍の人など。特に、日本育ちの外国籍のクリスチャンの中には、外見はまったく日本人ではないのに、言葉遣いや思考は日本人そのものという人もいる。彼らは外国籍であっても、文化的には「日本の教会」の人だ。
このような教会に属している、あるいはこのような背景を持つクリスチャンにとっては、「戦争責任? 日本の教会の歴史的罪? それは、私の教会とは、私とは関係ありません」ということになる。彼らは、戦争責任が生じようのない、別ルートを通ってきた別枠の教会やクリスチャンなのだ。彼らを指して「日本の教会ではない」とは言えない。「日本の教会としてはカウントしません」と言ってよい理由はない。彼らも立派に「日本の教会」であり、顔つき、肌の色、国籍、文化が違うとしても、「日本」という共通項で隣人として神様が近くに配置された、キリストにある兄弟姉妹である。彼らもまた、神様がそれぞれに目的を持って日本に福音の種をまくために召し出された働き人なのだ。
ここで、「彼ら」とは別の「彼ら」の話に移りたい。
終戦記念日が近づくと、日本の教会の多くが戦争責任を告白し、それを毎年思い起こし、教訓を学び、再び同じ過ちを起こさないように肝に命じ、「おお神様、私たちは加害者です」と悔い改めを祈る。これには意義があるし、これを否定する必要はない。それを行うべきだと考える人は、そうすべきであろう。戦時中、戦争に協力した歴史のある教会に通う人の中には、教会が声を上げるべきときに上げず、反対すべきことに反対しなかったことを半永久的に罪として記憶し、毎年終戦の日にこの罪を告白し、子々孫々、教会の子どもたちに受け継がせ、語り継がせようとする人がいるかもしれない。多くの人命を奪った戦争に対する責任を直視し、それを忘れまいとする姿勢は、真摯(しんし)であり、善意に満ちており、尊敬に値する。
しかし、その善意を悪用する羊の皮をかぶったおおかみがいるとしたらどうだろうか。「教会の戦争責任」という言葉を利用したいがため、幾つかの教団の少数の意思決定者に干渉した者がいたとしたら。キリスト教信仰とはまったく別の目的でその言葉を用いて真摯なクリスチャンをだまし、手駒にする者がいたとしたら。
「教会の戦争責任」という言葉が叫ばれ始めた前後、つまり1960、70年代の世相は度外視できない。つまり、学生運動や弱者の保護を装って、ローマ書13章でパウロが言うところの「上に立つ権威」を打倒し、労働者が支配する神なき天国を建設できると信じる者たちが、キリスト教メディアを含む各種メディア、教会を含む各種宗教団体、ミッションスクールや神学校を含む各種学校に浸透していった時代背景を無視してはいけない。特に日本基督教団では、いわゆる「教団紛争」として、それが顕在化した。
彼らは何をしたのか。彼らは、思想や方法論が異なる派閥間では、ヘルメット姿で暴力行為を繰り返し、時には互いに頭や体を凶器で強打し、命を殺(あや)めることもあった。弱者のためだと口では言いつつ、弱者のことなどまったく思いやらず、鉄砲玉のように利用し、雑巾のように使い捨てた。反発する弱者には容赦なく攻撃を加えた。礼拝を粉砕するとして、説教が聞こえないくらい大きな声で「ナンセンス」と連呼した。彼らの暴力の象徴であった長い木材で脅し、教会や教団の意思決定を曲げさせた。神は存在せず、この世界に存在するのは物質だけだと主張した。イエスをキリスト(救い主)だと認めない者でも牧師になることのできる制度を暴力によって作らせた。そうやって自分たちでこじ開けた、羊の囲いの破れたところから、堂々と羊を餌食にするために入ってきた。
こうした彼らに対し、日本の教会では、ある人は主イエスに見習って命を懸けてこれと戦い、ある人は雇い人のように、ぼうぜんとされるがままにしていた。戦争の歴史とともに、こうした歴史からも教訓を学びたい。むしろ日本の教会が普遍的に語り継ぐ必要のある歴史とは、このような歴史ではないかとすら思う。
彼らに盗まれた戦争責任という言葉を、日本の教会は取り返さなければいけない。終戦から75年がたった今、キリスト教界に忍び込んだ彼らのうち、ある者はすでに死去し、ある者は一線を退き、ある者は高齢によりキリスト教界で不当に手に入れた地位を手放さざるを得なくなった。彼らはかつて「教会の戦争責任」という言葉を思うがままに振りかざして他人を裁き、威圧し、非聖書的な罪悪感を植え付け、人々を操縦した。主イエス・キリストの十字架によって赦(ゆる)されたはずの罪が、あたかも赦されてないかのように錯覚させた。しかし、日本の教会が彼らに手を出せないでいる間、神様が進めた時計の針に彼らは押し出され、退場しつつある。
まるで罪の烙印(らくいん)のように、「教会の戦争責任」を、戦争責任とは関係のない日本の教会にまで押し付けることがあってはならない。まして、偏ったイデオロギーを信奉しつつも、その事実を隠してクリスチャンになりすまし、教会をイデオロギー装置として乱用しようとする者が、「教会の戦争責任」という言葉を使って、伝道のためにクリスチャンが協力するのを妨げるようなことは、なおさらあってはならない。
終後75年に際して提言したい。日本の教会をすべてひとくくりにして、戦争責任を語り続けるのではなく、かつて日本が戦争で苦しめた国の出身者が多く暮らす現代の日本社会で、彼らを兄弟姉妹としてどう受け入れ、どう共に生きるかを考え、祈り、話し合ってみてはどうだろうか。教会の近くに住む彼ら、職場にいる彼ら、近所のコンビニでレジを打っている彼らを、失われた一匹の羊を探すように探し、日本社会の敵意によって心を半殺しにされた彼らを、ロバに乗せて宿に運ぶように教会に招き、言葉と行いで福音を、神の愛を伝え、隣人として、兄弟姉妹として、この「日本の教会」でどう共に生きるかを。
できることは多くあるはずだ。自分の地域には、どの国の出身者が多いのか、彼らが主に使う言語は何か、インターネットや役所で調べることはできる。日本語が満足にできない外国人のために、外国語やひらがな表記、ふりがなの付いたやさしい日本語を用いた教会の案内を作ることもできる。同じく教会のホームページにも、外国語ややさしい日本語のページを1ページ追加することも可能だ。簡単な翻訳であれば、インターネットの無料の機械翻訳を使えばできる時代だ。
いきなり外国語の礼拝を始めたり、日本語の礼拝に同時通訳を付けたりする必要はないだろう。しかし、壁を打ち壊すために、小さくともできることはある。そして、その小さな働きの芽を大きな木に育ててくださいと、神様に祈ることもできる。これは、戦争責任を自覚する教会でも、戦争責任とは関係のない教会でも普遍的にできることである。また、彼らが母国に帰って福音の種をまくなら、世界宣教にも貢献することだ。
終戦75年のこの日、戦争責任を自覚する教会やクリスチャンも、戦争責任とは関係のない教会やクリスチャンも、互いの立場を尊重し、共に伝道のために協力する「日本の教会」を夢見て、祈りに覚えたい。