1878年の秋。ようやく長い間の努力の末に興した事業もすべて安定し、順調に運営していけるようになったので、アンドリューは休暇をとり、「仲良しヴァンデ」と呼んでいるジョン・ヴァンデヴォルトと一緒に世界一周の旅に出た。この旅が彼に与えた精神的恩恵は計り知れないものがあった。
欧州の国々を回ってしみじみ感じたことは、各地に素晴らしい寺院や教会が建てられており、すべてそれらは神に対する感謝のしるしとして寄付されたものであることだった。2人はスイスに行ったときに、そこでひときわ立派な教会を見た。
「これはある裕富な商人が全財産をささげて建てたものだそうですよ」。ジョンが言った。彼らがその教会の庭を歩いていると、そこへ一人のシスター(修道女)がやってきた。彼女の顔は平和と喜びに輝き、遠い国からやってきた旅行者に優しいいたわりの言葉をかけた。それから貧しい自分の宿舎に案内すると、温かいミルクとチーズを添えたパンを出してくれた。部屋には家具はなかったが、色とりどりの美しい野の花が飾られてあった。
「あなたの上に神の祝福がありますように」。2人はこう言わずにいられなかった。「私たちの国籍は天にあります」。シスターは優しい声で言った。「この世でお金をもうけても、それを天国に持っていくことはできません。だから、この世では神様のお恵みと毎日のパンを頂ければ、それでいいのです」
「ああ、本当にそうですね」。アンドリューは感動して言った。「われわれは何と小さなことにとらわれ、毎日をあくせくして過ごしていたことでしょう。ここへ来て、何か目が開かれたような気がします」。シスターは微笑を浮かべつつ、教会を建ててささげた商人の話をしてくれた。
その商人は小さな頃からお金に不自由したことがなく、毎日を面白おかしく過ごしていました。上流階級の娘と結婚し、父の莫大(ばくだい)な財産を受け継ぎ、子どもも与えられ、何一つ不足はありませんでした。
ところがある時、思いがけないことが起こりました。こよなく愛していた5歳のひとり娘が、ベランダから落ちて死んでしまったのです。彼は初めてお金ではどうすることもできないことが人生にはある――ということを知りました。
娘を思っては嘆き悲しんでいた商人は、ある夜夢を見ました。娘はかわいらしい小さな手で父の手をつかみ、天国につれて行きました。そして、悲しそうにこう言うのです。「お父さん、あたしは天国で幸せに暮らしているけど、毎日涙をこぼしています」。商人はびっくりして、そのわけを聞きました。
娘は言いました。「愛するお父さん、あたしは天国に来てもちっともうれしくないの。この都はみんなが宝をささげて建てられているのに、あたしは何もささげられなかったんですもの」
「なんだ。そういうことならちっとも心配はいらないよ」。商人は、娘の髪をなでながら言いました。「お父さんは大金持ちだから、おまえのためにたくさん寄付してやろう。こんな都の2つも3つも建てるくらいの財産はわしにあるからな」
「かわいそうなお父さん」。娘はいっそう激しく泣きながら言いました。「財産を持って天国には入れないの。地上の宝はこの天国では土くれに変わってしまうのよ。この天国の都を作る宝は神様に喜ばれる清い心、温かな愛、優しい思いやりなのに。――さようなら、お父さん」
娘は悲しそうな目でじっと商人を見つめたかと思うと消えてしまいました。目が覚めた商人は、やっと自分が間違っていたことに気付きました。それから、人が変わったように財産を貧しい人々に施し、また、自分の財産や権利を売り払い、その代価をすべて投げ打って、この教会を建てたのです。商人は多くの人の手本となるような、清く誠実な余生を送り、天に召されたのでした。
シスターは語り終えるとキラキラした目でアンドリューたちを見た。「天に宝を積むこと――これは素晴らしいことなのですよ」
旅から帰ったアンドリューは友人に言った。「ねぇ、ヴァンデ。私も商人のようになるところだったよ。財産を持って天国には行けないのにね」
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<あとがき>
アンドリュー・カーネギーが世界的名声を得たのは、鉄鋼業界で成功し、幾つもの事業を興したためでありましょう。しかし、それだけでは彼は単に普通の実業家として平凡な道をたどったにすぎません。彼の名を世界的に有名にしたのは、自分が築き上げてきた富を惜しげなく全世界の人々の幸せのために分配したことです。
彼がこのような福祉事業に身をささげたことにはあるきっかけがありました。ある時彼は多忙な中でわずかな休暇をとり、友人のジョン・ヴァンデンヴォルトと共に欧州を旅行しました。そしてスイスに立ち寄ったとき、図らずもある立派な教会を見、それが一人の名もなき商人がささげたものであることを知りました。
そして彼らは、その教会のシスターから「天に宝を積みなさい」という聖書の言葉と共に、その教会がささげられた美しい話を聞いて感動したのです。アンドリューはそれから間もなく「富の分配」という福祉事業を計画したのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。