ユミは隣に寝ている夫を起こさないように、そっとベッドから抜け出しました。音を立てずに寝室を出てキッチンに入ると、換気扇の下に置いてあるタバコに火をつけ、深く息を吐きました。
時計は朝の5時を指しております。夫は、あと2時間は眠っていてくれることでしょう。物憂げに小窓からのぞく景色を眺めると、いつもと変わらずに朝日が家々の屋根を明るく照らしており、薄い雲も、ゆっくりと流れておりました。
冷蔵庫を開けてロース肉を取り出すと、まな板を軽くふいて肉を薄く切りました。ネギと生姜を出し、大きく切って、お肉と一緒にビニール袋の中に入れると、醤油やみりん、酒といった調味料も流し込んでビニール袋を固く結わきます。次はかぼちゃを手に取り、お味噌汁の準備です。皮を落として種を取り、大きめに切ってお鍋にお湯を沸かします。・・・そうこうしているうちに少しずつ、心は平安で満ちてきます。ユミにとって、朝のこの時間はあまりに大切なものでした。
ユミの夫は先月、会社を辞めて帰ってきました。働き盛りの50代に突入してすぐのことでした。朝の6時に出社する必要のなくなった夫は、一日中家にいて、求人雑誌をめくったり、ニュースを見てぼんやりとしておりました。今までうっすらと描いていた人生の計画表がびりびりと破ける音に、ユミの心は震えました。「助けてください」。ついそんな言葉が漏れて、台所にうずくまったこともありました。
「助けてください」。その叫びに気付いた者がおりました。それは神様のみ使い、ダニエルです。ダニエルが神様から頂いた優しく大きな心には、世界中の人々の祈りや叫びが響き続け、ダニエルは心を震わせて、その声のもとに飛び立つのです。
見えるでしょうか? 空には光が満ちています。夜空にだって、無数の色の光が満ちています。その光は、この世界に遣わされている幾億ものみ使いたちが身をひるがえし飛び交っているからこそ、きらめき続けているのです。神様のそのお優しい心は、ご自身の心で出来たみ使いたちを生み出しました。み使いたちは神様の心のままに、悲しみのもとに、叫ぶ者のもとに遣わされ続けているのです。
神様は「ご自身の瞳」のように人間の一人一人を愛しておられ、「ご自身のまぶた」のように一人一人を守りたい、そう思っておられるお方です。み使いたちは一人も残さずに神様のもとに招くために、今日も一生懸命働き続けているのです。
「神様に何ができるのか? 困難ばかり与えるじゃないか」。神様をののしる声も聞こえそうです。とんでもない。神様は何でもおできになります。神様を頼ってくれさえすれば、神様はこの闇の世界を迷わずに歩くための道灯り、ともしびとなって一人一人を照らし、時に慰め、時に励まし、導き歩いてくださいます。
台所で出来立ての朝食を盛りつけていたユミの手が、か細く震えました。「もう生きてはいけないな」。「すべてがおじゃんだ」。そうささやく悪魔の声が、ユミの心に突き刺さったのです。「そうね・・・これからどうやって暮らしてゆけばいいのかしら」。唇は青みを増し、気丈にテーブルの上に器を並べました。
寝室から、夫がパジャマ姿で出てきました。夫は何も言わずにテーブルに腰掛け、並べてある朝食の前で手を合わせます。ユミも腰掛け、同じように手を合わせ、2人とも箸を取りました。ご飯とかぼちゃのお味噌汁、筑前煮に納豆と、豚ロースのねぎ焼き。デザートはヨーグルト・・・。
(今日はこんなに食べものもあるけれど、いつまでそれも続くかしら。)ユミの瞳はかげりました。ユミもパートに出ておりましたが、そのお給料は光熱費を払ってしまえば消えてしまうほどの、ささやかなものでした。また、夫がずっと家にいて、時に頭を抱えたり、ぶつぶつとつぶやきながら求人雑誌に目を落とす姿を一日中見続けなくてはならないのは、つらいことでありました。
小さな家に悪魔の影が忍び寄り、少しずつ出口のない檻が組み立てられてゆくようで、それはあまりに恐ろしいことでした。なぜなら、悪魔の檻は「絶望」や「落胆」で出来ており、「希望」や「夢」が入り込まないように換気口もついていないのですから。悪魔は人の心に付け込み、「不安」や「心配」の隙が出来るや否や、そこに足場を組んで着々と住を構えます。恐ろしいささやきを響かせて、人の恐怖をあおりながら・・・。
ユミは次第に食欲も落ち、原因の分からない微熱が続くようになりました。夫が起きてくるだけで、頭痛がするようになっていました。ずっとやめていたタバコにも手を出し、その本数は日増しに増えてゆきました。小さなことでいら立って、夫を責め立て、自分を嫌いにもなりました。
「たすけて・・・」。ダニエルは、悪魔に足場を固められた小さな家を見つめ、つぶやきました。「あなたはきっとこの策略から抜け出すことができるでしょう。しかしあなた自身の力で、この策略を打ち壊さなければならないのです」。悪魔はダニエルの気配に気付いてつぶやきました。「この家はもはや私の手の内に落ちています。あなたに何ができるのでしょうか」
悪魔の笑みが、夜の深みに広がります。家の花壇に咲いたばかりのチューリップたちも、その笑みにのまれるようにこの晩のうちにしおれてしまいそう。ユミの眠りの中にもその笑みは忍び寄り、ユミは嫌な汗をかきながら、歯を食いしばって寝返りを打ちました。
脂汗にまみれてユミは目を覚ましました。その汗は、なにか恐ろしい物の粘液のように感じられ、飛び起きてお風呂場に行き、熱いシャワーを浴びました。お湯に打たれながら、しゃくりをあげて泣きました。ひとしきり泣いて心が落ち着くと、ラベンダーのシャンプーで長い髪を洗いました。体もゴシゴシと泡でいっぱいにして洗います。そういえば、もう何日もシャワーも浴びていなかったことに気付きました。
湯船に入ってお湯で顔をぬぐうと、浴槽の上の小窓から風が吹き、ユミの頬をなぜました。気が付くと、湯船に1枚の桜の花びらが浮かんでおりました。それはまるで、見えざる何かが、「大丈夫、そばにいるよ」そう言ってくれたように感じました。
そういえば、今は桜の季節です。毎年大好きだった桜の季節でありましたが、今年は桜を少しも見なかったことに気付きました。透明な湯船に浮かぶ花びらは、ほのかなピンク色。ゆらめきながら、ユミの心を少しずつ解きほぐすようでした。「そうだ、明日は夫と桜を見に出かけよう」。そう、思い立ちました。
お風呂を上がると、体中から花の香りがして、気持ちは晴れやかです。まだ少し早いけれど、久しぶりにアールグレイの紅茶をゆっくり飲みたくなりました。お湯を沸かしながら、ダイニングのカーテンを開けました。まだ暗みがかっている空に、朝日が昇ってゆく様子を見つめてみたくなったのです。
空は藍色。藍色の空に枯れた木々がコントラストをなしています。まだ灯っている街灯は虹色の輪っかで包まれており、鳩の鳴き声がどこからか聞こえてきました。クルッククー、と喉を鳴らす声さえも、いとおしく思えます。こんなに優しい気持ちは久しぶりでした。いつの間に、自分は世界から取り残されていたというのでしょう。世界はユミが心の暗闇にふさぎ込んでいる間も、こんなふうに命にあふれた毎日を繰り返していたというのに。
アールグレイの紅茶がにじんで、複雑な香りを放っています。空は藍色と青のはざまの言いようのない美しい色に染まっていました。紅茶を一口すすると、ユミはなんだか眠くなり、子どものようにテーブルに突っ伏してうつらうつらとしてきました。
不思議です。何にも心配などないような、そんな気持ちが広がるのです。眼差しを感じていました。その眼差しは、まるで祈りのようにユミを愛し、尊ぶような眼差しなのです。その眼差しの主は神様・・・そしてダニエルでした。ダニエルはうつらうつらとするユミの隣に腰掛けて、静寂に溶け込むささやきで話しかけていたのです。
「私の主人である神様が、こう言っておられるのです。『空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれかが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着るもののことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません』と(マタイ6:26~28)。・・・空の鳥がそうであるように、野の花がそうであるように、神様ご自身があなたがたを育てて養ってくださいます」
ユミはふと窓辺の花瓶に目を留めました。もう何日も水を替えてやらなかったというのに、ピンク色のカーネーションは咲き誇っておりました。ユミが忘れている間も、カーネーションを咲かせ続けている大いなる力は、ユミさえも守ってくださる、そんな気持ちが沸き起こるのです。熱すぎたアールグレイの紅茶も、ほどよく冷ましてゆく、その力はどこから来るというのでしょう。それは自然というにはあまりにも、深い意思を持ったものであるようでした。
「こんな所で寝ていたら風邪ひくぞ」。夫の声に目を覚ましました。窓からは明るい光があふれており、部屋中に注いでおりました。夫はキッチンを眺めて、何も用意されていないことに気付くと、「たまには外に食べに行こうか」と言いました。ユミはふと、「おにぎりを作るから、桜を見に行きません?」と口走っておりました。
ユミはバッグにおにぎりと水筒を入れ、玄関を出ると、久しぶりに夫の手を握りました。夫は戸惑いながらもうれしそうにはにかみました。桜の咲く公園に出ると、もう葉桜になろうとしている頃でした。花びらのわきっちょから小さく新芽を出しています。
ユミは花を見上げて、「この際だから、旅に出るのもいいと思うの」と言って夫を驚かせました。「遠い町や知らない所に行って、見たこともない景色を見たいわ。こんなに一緒にいられることもないんだから」。ユミは見てみたくなったのです。神様を信じずにはいられなくなる・・・そんな自然のありさまや、さまざまないのちの生きるさまを。「それもいいかもしれないな」。夫もまんざらでもなさそうです。
桜の花びらがひらひらと落ちて、地面をピンク色に染めてゆきます。降り注ぐ光はユミたちを照らし、その光は、まるで言葉のようでした。いいえ、この世界のすべて、野に咲く花も、夕闇の空も、川面の鳥たちも、皆歌っているのです。神様の言葉を。・・・聞こえますか?
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。