キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖(あがな)い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 (ガラテヤ3:13、14)
多くの歴史書はそのまま文字通りに受け取れないケースが多いといわれます。それは時の権力者によって都合のいいように書き換えられ、削除されることがあるからだそうです。他の歴史書との比較や考古学的見地から検証されることもあります。また神話や民話の中に思いがけない真実が隠されていることもあります。たとえ教科書に書かれていることでも、文字通りに受け取らないほうがいい場合もあるかもしれません。
教科書では聖徳太子は仏教を日本に取り入れ、広めた人になっていて、仏教徒の代表みたいな扱いになっています。実は、古代日本で生まれた古神道は、ユダヤ教の影響を受けているといわれます。原始キリスト教徒も早い段階で日本に来ていて神社で布教が行われていたとの説があります。一方、シャカ仏教もインドでトマスの説く原始キリスト教に影響を受け、従来のものとは根本的に異なる大乗仏教となり、中国、日本に伝播していったと見ることもできます。聖徳太子の時代に日本に伝わったのは大乗仏教です。このように見ると、当時の日本にあっては神道、仏教、古代キリスト教という3つの宗教が平和的に共存していたと考えることもできます。一説には、聖徳太子は原始キリスト教徒だったともいわれます。仏教と神道の勢力争いがあったというのは後の時代の付け足しで、政治家の権力争いを宗教紛争のように装ったのではないかと思います。
聖徳太子は法隆寺を建立したといわれますが、現存の法隆寺は太子の建てたものではありません。太子自身の建てたものは法隆寺の隣に遺構だけが今日でも残っています。また、太子の死因は天然痘説が有力ですが、政治的陰謀により暗殺されたとの説もあります。実際に、その後一族は滅ぼされ、太子の建てた巨大な建造物も自宅も破壊されました。太子の呪いを封じ込めるために自宅跡に建てられたのが現存の法隆寺だったということも考えられます。
これは近世の出来事で歴史の書き換えではありませんが、内村鑑三は仏教界では仏教徒として伝えられています。この話を聞くと多くのクリスチャンはどうして仏教はそういううそをつくのかと反論します。私は仏教の僧侶と話をしてみて、その謎が解けました。内村鑑三は偉大なクリスチャンです。しかし無教会信者であり、どこの教会にも所属していませんでした。遺族はお寺の墓地に埋葬したのです。お寺の墓地に埋葬され、納骨しますと仏教徒として扱われるということでした。
歴史の表舞台に華々しく生きる人もあれば、裏社会でひっそりと生きていく人もいます。また、歴史の狭間の中でまるで存在していないかのように忘れられていく人々もいます。奈良時代から昭和初期までサンカと呼ばれる山岳漂流民が存在したといわれます。運動能力に優れ、鋭い眼光をしていたが、穏やかな性格で一般市民に危害を加えるようなこともなく揉め事も起こさなかったといわれます。指導者がいて統率のとれた行動をしていたそうです。ただ彼ら同士で語るときは異なる言語を用いていて、彼らの実情を知ることは難しく謎の集団と呼ばれていました。山の中で籠を作っていてそれで食料品や日用品と交換していたようです。また、時には川魚を採ってきて米と交換していました。
豊臣秀吉は農民の子として生まれたが太閤にまでなった立身出世のお手本みたいにいわれます。実は、農民の子ではなく、サンカの出身なのではないかという説があります。サンカは土木工事や建築にも優れた才能を持っていたそうです。秀吉が一夜城を造ったとか3日で要塞を築いたとか伝説があります。上流の地で木を伐り、加工して川をいかだにして下り、プレハブ工法のようにすれば一夜城も夢ではなくなります。そのような発想はサンカとして生きてきたから生まれたのではないかと想像されます。信長が本能寺で明智光秀の謀反にあったとき、秀吉は中国地方で毛利氏と戦っていましたが、和平を結び、中国大返しと呼ばれる早業で京都に帰ってきます。山岳の民としての業を生かしたのではないかと思います。
このサンカは江戸時代も存続しますが、明治になったときは20万人ほどいたといわれます。江戸から明治に移る混乱期に相当数一般社会に入り込んだのではないかといわれます。昭和20年には1万人残っていたみたいですが、そこで完全に溶け込みます。戦時中、空襲で役所が焼けますと、戸籍が消滅してしまいます。住民から申し出により戸籍を再現しますが、ほとんどが検証されることもなく、住民が言うままに作成しましたので、この時期に完全に溶け込めたと思います。
古代日本に渡ってきた渡来人の中にかなりのユダヤ系の人々が含まれていたとの説があります。彼らは優れた技術を持っていたので、とても重宝され、天皇に仕えるような高い地位に就く人もいました。ほとんどの渡来人は日本の社会に同化吸収されましたが、どうしてもなじむことのできない人々もいたのではないかと思います。そのような人々がサンカとなり、日本の山岳信仰や巨石信仰を生み出していったのではないかと想像すると、歴史のロマンを感じるのは私だけでしょうか。歴史の裏の存在でありながら、日本の文化に影響を及ぼしています。
この日本の国は世界の中でも宗教対立を避ける知恵を持っている稀有(けう)な存在だと思います。イスラム教徒とキリスト教徒の対立に仲保者となれるのは、アブラハムの祝福を受け継ぐ日本人だと思います。イスラエルはエルサレムの黄金のモスクの立つ所に第三の神殿を建てようともくろんでいます。建設資材の用意はすべて終わっているといわれます。そのまま突き進めれば大きな紛争になり、戦争の引き金になるかもしれません。しかし、日本の宗教者が間に立ち、ユダヤ教の神殿もイスラム教のモスクも仏教の祈りの施設も含む宗教記念館として建設すれば平和的に解決できます。
日本は飛鳥、奈良時代から宗教の融和と平和を実現しています。奈良の大仏が造られたときも、疫病がまん延して人々の安寧を祈るために建造に取り組んだといわれます。その時に建設資金を援助し、銅の鋳物師など技術者を派遣したのが宇佐神宮だったのです。だから仏教と神道は対立していたのではなく助け合っていたのだという歴史の証明になります。素晴らしい歴史遺産を持つ日本人だからこそ、世界の仲保者として立っていけるのではないかと思います。
※古代日本とユダヤ人との関係に関する本コラムの内容は、あくまでも筆者の個人的な見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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