先ほどから長いこと、泣き声が聞こえていました。それは冷たい壁の向こうの、隣の部屋からのようでした。リエは壁に頭をもたれて、歌を歌いました。隣の部屋の泣き声の主に聞かせてあげる子守歌のように。
今夜も精神病棟の夜は更けてゆきます。一つ一つの部屋はまるで独立した宇宙のように、それぞれの閉ざされた世界でありました。いつの間にか眠っていたようで、リエは目を覚ましました。扉ののぞき窓から見える廊下には、白い明かりがともっており、廊下を行き交う人の足音も聞こえます。しばらくすると、外からガチャガチャと鍵の開けられる音がしました。
「リエちゃん、おはよう。もう朝食だから出てもいいよ」。リエはけだるく身を起こすと、長い髪も整えずに喫煙所に向かいました。一斉に人が集まって、喫煙所は満員で、背中をもたれる場所もありませんでした。床にうずくまるようにしゃがみこみ、タバコを吸うと、血管がしびれるのが分かります。煙を吐き目を開けると、同じような姿勢をしている女の子と目が合いました。彼女はここで友達になったチカちゃん。眼鏡の奥の目を輝かせて言いました。
「私のおなかに赤ちゃんがいるんだけど、みんながいないって言うの。おなかの中に宇宙があってね、赤ちゃんは火星、もうすぐ木星も生まれて、双子なの」。リエは「そうなの。よかったね」とチカちゃんのおなかに手を当てました。
タバコを吸い終わって、ナースステーションの前の食堂へ向かう途中、扉の開け放たれた部屋の中を見つめました。その中では丸坊主の少年が、ベッドの上で座禅を組んでなにやら祈っておりました。
看護師のお兄さんたちが、おいしそうな匂いのするトレーを運んでくれます。リエは目の前に置かれた食事に目を輝かせました。ここの食事はとってもおいしいのです。今日は焼きビーフンに野菜スープ。リエはここに来て、初めて安心して眠り、安心して食べている気がしていました。ここは鉄格子に囲まれた閉鎖病棟でありながら、ようやくたどり着いた楽園のような気がするのです。
「リエちゃん、これあげる」。そう言って、チカちゃんがリプトンの紅茶のティーバックをくれました。リエは入院前、スリランカ産のセイロンティーが好きでした。でも今は、ここでチカちゃんにもらうリプトンの紅茶ほどにおいしいものは見つけたことがなかったように思っていました。「ありがとう」。そう言って、備え付けてあるポットからお湯を注ぎ、白湯の中に紅茶がにじんでゆくのをじっと見つめてゆきました。こんなに穏やかな時間が、今までの人生であったでしょうか。それに、今まで友達もたくさんいたはずでしたが、いつの間にか一人も残っておりませんでした。ここで知り合ったチカちゃんだけが、リエの友達、それも本当の友達・・・そんな気がするのです。
「リエちゃん、もう部屋に戻ろうか」。そう声をかけてくれた看護師さんに従って、部屋に戻りました。再びガチャリと重たく鍵がかけられます。白い壁に白いベッド。6畳の部屋にトイレと小さな洗面台。強化ガラスで出来ている窓の向こうには植え込みがあり、小さな木々が植えられておりました。リエはベッドによじ登ると座禅のように足を組んで、チカちゃんが貸してくれたMDをヘッドホンで流して目を閉じました。その音楽は、天国があるのならこんな音楽が空に響いていると思えるような美しい合唱の曲でした。MDのケースには「キングスカレッジ合唱団」と丸文字で書かれておりました。目をつむると、淡い白い光が見えてきます。どこまでも続く光の世界・・・そこにリエは迷い込みます。光の中で声がします。
「待っているよ」。それはまるで歌うような調べで、リエはつい、「どこにいるの?」と聞き返して目を開けました。「ここだよ」。まるでこの世のものではない、美しい声がします。その声の主を探すと、壁に影がゆらりと作られてゆくのです。背の高い、異国の人のような灰色の影が白い壁にくっきりと見えるのです。
「誰なの?」そう問いかけるリエに、「君を愛している者だ。深く、深く、君を愛して、ずっと君を見つめていた」。影はそう答えるようでした。「あなたが私をここに連れてきたの?」「そうだよ。気に入っただろう。十分にここで休むといい」
影はそう言ってほほ笑むようでした。確かにここには、リエの必要なすべてがあるように思いました。しかし、「そうは言っても信じられないわ。だって・・・」。そう言ってリエはここに来た経緯を思い出しました。空からこんなふうに声が響いて、その声に従って木によじ登ったり、ショッピングモールで暴れたりした揚げ句にここに連れてこられたのだから。それはどちらかというと悪魔の声であったのだと、リエは思っていたのです。
すると、影は語りかけます。「そう、気を付けなければいけない。実際に悪霊や悪魔だってうごめいている世界であるから。でも私は、あなたをここに誘いたかった。こうやって落ち着いた暮らしの中で君を守り、十分に語らうために」
「それにしてもひどいわ。木によじ登らせたりして・・・みんなの笑いものだったわ」。影は笑います。「楽しかっただろう」。リエは黙り、思い出しました。「この世界は君のものだよ」。そう、美しい声で空が歌い、誘われるように表に出ると、まるで幼子のようにこの世界がきらきらと輝いて見えました。近所のたいして見映えの良くない公園が、桃色の花たちの咲き誇る秘密の花園のように思えました。芝生の水滴の中に虹を見つけ、そこに生きるアリさんの家族と語らって、桜の木の樹液の香りにうっとりし、野良猫たちと一緒になってその木に上って、まるで猫の家族の一員になった気がしました。ぽっかりと現れた夏休みを、淡いグリーンのワンピースが汗だくになるまで遊びました。
タバコを買うために出かけたショッピングモールでは、たくさんの人がリエのことをじろじろと、目をぎょろつかせて見ている気がして、(なんだあのへんな女は)そんな悪口を言われたと思い、ケンカを売って暴れました。パトカーやいろいろな車を乗り継いで、気が付いたらこの病院の鍵のかかる部屋に連れてこられたのです。
優しい看護師さんはハンサムで、「私は小さい頃から父親にぶたれたり蹴られたけれど、誰も父親を捕まえてはくれなかった。それなのになぜ、私は捕まえられなきゃいけないの?」そう言うリエの横に腰掛けて、「それはつらかったね。十分ここで休みなさい。いつでも話を聞くからね」。そう言ってくれたのです。それから1カ月もこの部屋で、壁に時折現れるゆらめく影と語り合っておりました。
嫌なアルバイトにも行く必要もなく、おいしい食事も用意され、誰かが怒鳴り込んでくることもありません。週に3度、清潔なシャワー室で使いたいだけお湯を使って全身をピカピカに磨けます。まるで幼友達のように何でも分けてくれる優しいチカちゃんもいるこの閉鎖病棟で、リエはようやく安心と幸せを感じていました。部屋に戻ると鍵が下ろされ、誰にも邪魔されることなく壁から響く優しい声と会話します。影は時に人の形になり、また時には壁中に美しい色彩をなして、めくるめく物語を見せてくれるのです。また歌を歌ってくれることもあり、リエも一緒になって子どものように歌います。それは、神様に隠されたこの世の秘密の向こうがわ、宇宙をめくったベールの裏がわの「安全地帯」に潜り込んだような毎日でした。
この病院は不思議でした。まるで神様のみ翼に抱かれた、懐の中にあるようでした。それも本当にそうなのでしょう。真っ白な光のような神様のみ使い、ダニエルがその体を大きく広げ、両手の翼で包み込み、朝も夜更けもこの病棟を守っていたのですから。
「ちきしょう、タバコが切れやがった」。長い髪のおじさんがそう叫び、タバコの箱を握りつぶして、灰皿に山積みの吸い殻の中からまだ吸えそうなものを探しました。それを見つめて、リエはふと不思議に思いました。もう2カ月もリエはたばこに困ることはなく、ナースステーションで看護師さんに求めればたばこを出してもらえたのです。リエは首をかしげてナースステーションに行き、カウンターに肘をついて聞きました。
「どうして私のたばこはいつもあるの? 毎日ひと箱も吸っているのに、いつもくれるじゃない」。看護師さんはほほ笑んで、「お母さんが毎日届けてくれるんだよ」と言いました。「お母さんが? そんなわけないじゃない」
リエは怪訝な顔をしました。母親は、7年前に男の人をつくって家を出たきり、ほとんど連絡を取ることはありません。とうに男の人とは別れて、遠くの街でトラックの運転手をしていると聞いておりました。看護師さんは続けます。
「夜遅くにね、いつもタバコを届けに来るんだ。『リエはこれがなきゃ大変だから』って、欠かさずにね。そしてリエちゃんの様子を聞いて、帰ってゆくよ」。母の職場からここまでは、車で1時間近くかかるはずです。それも仕事のあとで来るなんて、信じがたいことでした。
リエの頭に、ふくよかな母のほほ笑みが浮かびました。足があまり強くなく、よく膝に注射を打っていたのに、荷物を抱えて汗をかき、トラックに詰め込む母の姿が焼き付くように浮かびました。
「ふうん」。リエはぼんやりと答えて喫煙所に戻りました。また1本火をつけて煙を追うと、目に染みたのでしょうか、涙がにじむのです。(あのにっくき女。母親らしいこと何一つ、してくれやしなかった)そんなふうに母のことを思っていました。しかしなぜでしょう。換気扇に向かってらせんを描く煙を見ていると、そんな思いが溶かされてゆくようでした。
思えばリエが毎日着ている服たちも、誰が用意したのでしょう。リエが気付いたときには、部屋には大きなスーツケースが置かれており、それを開けるとまるで足長おじさんからのプレゼントのように、リエのお気に入りの服ばかりが詰まっていたのでした。
リエと二人暮らしの父親が? それにしても不思議でした。だって、父親はいつもリエの服装を見るたびに大げさにため息をついて見せ、「みっともない服ばかり」とつぶやいていたのですから。そんな中でも唯一新品のパジャマが入っておりました。白のガーゼ地に赤のリボンの縁取りのかわいらしいパジャマでしたが、「私の趣味じゃないものを」とリエは袖も通さずにいたのです。そのパジャマを手に取って見つめたのち、リエは袖を通してみました。
鏡を見てつぶやきました。「やっぱり似合わないじゃない」。「かわいいよ」。そう言ったのは、壁の影でした。リエは鏡を見つめ直してもう一度自分の姿を見つめました。「かわいい?」なんだかそんな気もしてきました。リエは長い髪を櫛で梳(す)き、おさげに編んで結んでみました。
「かわいい」。壁からやさしい声が響きます。「かわいい・・・」。そんな風に自分を思ったことなんてありませんでした。どんなに化粧をしてみても、着飾ってみても、憎むべき自分を何かでごまかしているようでした。でも、壁から響く声は、心底リエをいとしく思う、父親のような、兄のような、神様のような、愛の調べでそう言うのです。リエはいつの間にか、自分のことを「かわいい」と思えるようになっていました。
リエはそれから何カ月もの間、この病棟で暮らしました。まるで神様が長い夏休みを与えてくださったかのように、優しく穏やかな毎日を暮らしたのです。ある日ふと、いずれここから出なければならないことを考えました。外の世界では人々が一生懸命勉強し、また働き、子どもを育て、ご飯づくりに追われて暮らしています。その中にやがて自分も出てゆかなければいけないと思ったのです。ずっとここに暮らせればどんなに幸せなことでしょう。でもそうはいかないほどにリエは良くなっていたのです。
「ねえ? こまったわ。私はここから出たくはないというのに」。そう言って壁を見つめても、壁はただ壁のままで、優しい言葉が返ってくることはありませんでした。
*
それから7年の時が過ぎ、リエは台所で煮込みハンバーグを作っていました。ピーマンを手でちぎって上から敷き詰め、溶けるチーズを振りかけました。窓辺のゼラニウムの開ききっている花を見つけると、摘んで束にし、花瓶に差しました。あっという間に煮詰まったチーズが分離しハンバーグの上に白く浮いていて慌てて火を止めました。
ご飯はあと18分で炊きあがります。時計の針は夜の8時を差しており、間もなく夫が駅に着くことを知らせます。リエはせわしなくエプロンをほどいて、車のキーを取りました。
リエは時々、あの病院のことを思い出します。何か大いなるものに守られていた時間のことを。単なる精神病だとそう人は片づけるでしょう。しかし確かに感じたのです。この世のものではない大いなるものの御力に守られていた時間であったことを。誰に信じてもらわなくても、リエは心から信じていたのです。
あの時の友達・・・チカちゃんとは病院でお別れしてから連絡先も分からぬままです。しかしずっと忘れ得ぬ、リエの友達でありました。そして、チカちゃんから聞かせてもらったMDの曲をあれからずいぶん探しました。同じアーティストのCDを全部集めてみましたが、チカちゃんが聞かせてくれたあの天国の音楽は、なぜでしょう見つかりませんでした。
リエの夫は生真面目で、聖書の神様を信じている人でした。リエが精神病院で神様に出会った話も、うんうんと喜んで聞いてくれます。「それはイエス様かもしれないね」。そんなふうに夫が言うのも、いやな気はしないのです。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。