その街のうわさを、サダ姉は以前から聞いていました。「その街は、神を信じる、現実逃避の愚か者たちが身を寄せ合って暮らしていて、一様に貧しく苦しんでいるのに一向に神の助けも来ないバカげた街」と。それが「猫楽街」のはずでした。
しかしどうしたことでしょうか。この街の人たちは、確かに貧しくはありますが、よく笑い、信頼しあい、愛深い暮らしをしていたのです。
おばあちゃんはサダ姉を、街の至る所で開かれている「愛餐会」に連れてゆきました。「愛餐会」とは、この街で言うお食事会で、皆が台所にあるわずかな食べ物を持ち寄って、それを分け合って食べる席のことでした。持ってくる食べ物のない者は、野花を摘んでそれをテーブルに飾りました。この街では血のつながっていない相手であっても「兄弟」「姉妹」と呼び合って、本当の家族のように思いあい、支えあっていたのです。全員で、聖書の言葉を口に出し、その言葉の一つ一つを心から喜んでおりました。
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1:3)
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和である」(ガラテヤ5:22)
皆、聖書の言葉を命そのもののであるように、愛おしく口にしました。
「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ4:12)
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ4:19)
その言葉は、慰めや励ましなどではなく、真理としての力を持っていました。皆の顔の輝きが、それを証明していました。その食卓で出されたものは、キュウリの酢漬けと固いパン一つでありました。その、わずかばかりの食事を誰もが心から神に感謝して、神から与えられたものとして、喜びのうちに食べたのです。
サダ姉はこんなに質素な食事をしたことはなかったはずでした。しかし、サダ姉は固いパンをかみしめながら、こんなにぜいたくな食事をしたことがないような気がしました。サダ姉は、初めて「本当の食べ物」を食べたような気がしました。食物とは神から出、霊を育て得るものであったことに気付いたのです。
会の終わりに、皆がサダ姉の紹介を求めました。おばあちゃんは自慢げに「いろいろな苦労をして、ようやくこの街にたどりついた、サダちゃんだ。本当に心の優しい子だから、みんな仲良くしておくれ」と言いました。誰もがサダ姉に親愛のまなざしを向け、サダ姉と話したそうにしておりました。
サダ姉は、自分の姿を恥じて深いベールをかぶっておりました。しかし、この席にいる「兄弟」「姉妹」たちは、サダ姉の本当の姿を見ても受け入れてくれるような希望がひらめきました。己を恥じてベールを深くかぶっていることのほうが、恥ずかしいことのように思えたのです。
しかしすぐに、「そんなわけはない」とその思いは打ち消されました。「このやけどを見たならば、私の歩んできた道のひどさを悟って、皆が私を嫌うだろう」。サダ姉は、おばあちゃんをせっついて、早々に席を立ちました。
通りに出て、病院へと向かう道すがら、「ごきげんよう」「体調はいかが?」とすれ違う人は皆声を掛け合っておりました。サダ姉にも「よろしくね」「ようこそ」と親愛のあいさつが向けられます。サダ姉は返事もろくにできないで、うつむいたまま早足で病院へと向かいました。おばあちゃんは半分駆け足になってついてゆかなければなりませんでした。
サダ姉は、病院で洗濯と食器洗いの仕事を始めておりました。一人でできる仕事がよいと、サダ姉が選んだのです。サダ姉は、黙々と食器を洗っておりましたが、なぜか瞳から涙がこぼれては、たらいに波紋を起こすのです。サダ姉はやけどの痕の残った腕で、悔しそうに涙を拭いました。
「どうしてこんな世界があるのだ」。そう思ったのです。それはあまりにもサダ姉が生きてきた世界とはかけ離れた世界でした。祈りがあり、信頼があり、絆があり、思いあい、温かで・・・そんな世界があることを信じずに生きてきたことが悔しかったのです。そんな世界は絵本の中のたわ言だ、そう思ってきたのですから。
「お前にはこんな場所はふさわしくない」。そうささやいたのは、悪魔ではなくサダ姉自身でした。「私は悪魔の花嫁が似合ってる。こんな所で本当の姿を隠しながら、ほほ笑み合うことなんて・・・」。そう言って涙を絞りました。それでもキュッキュと食器を洗い続けました。自分が化け物のような気がしました。あれほどにおぞましい道を歩んできたというのに、何食わぬ顔で正体を隠し、こんな所に紛れ込んでいるのだから、と。
その晩、真夜中の深みの中で、サダ姉はベッドを抜け出しました。向かったのは病院の屋上でした。屋上では、取り込まれ忘れた洗濯物が風にはためいておりました。サダ姉は屋上の柵に手をかけて、悪魔を呼びました。「助けて。私はこんな所にいたくないの」
空は途端によどみ、紫色の雲が押し寄せて雲の中から声が響きました。「だったら簡単なことだ。そこから飛び降りるがよい」。そうサダ姉を誘いました。サダ姉にとって、死は友達のようなものでした。「つらくなったらいつでもおいで」「いつでもここに逃げておいで」「簡単だよ」・・・。それこそ悪魔のささやきであったことにサダ姉は気付かずにきましたが、今それを悟りました。
サダ姉は柵にかける手をゆっくりと離しました。「どうしてそんなに私の命が欲しいの?」そう力なく聞きました。紫色の雲は音を立ててうなりました。「お前が欲しい、それは愛しているからだ」
サダ姉はイエス様の言った言葉を思い出しました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう・・・」(ヨハネ4:14)
それはイエス様が不毛な愛に身をやつした、サマリヤの女におっしゃった言葉です。サダ姉は、「愛とは命を与えるものと聞いたわ」と悪魔に伝えると、とぼとぼと自分の部屋に戻りました。
ベッドに身を横たえると、サイドテーブルに置いてある聖書をじっと見つめました。そしてだるそうに手に取ると、「サマリヤの女」の箇所を開きました。
(イエス様はその女の恥ずかしい過去もすべて見抜いた上で、彼女を軽蔑したり嫌ったりはなさらなかった。それどころか慈しみのまなざしで、彼女にまで惜しみなく「神の奥義」を語り、ご自身の民に加えてくださった。)
・・・涙がつつ、と流れました。サダ姉の口から、祈りが漏れました。「わたしのためにひそかに設けた網からわたしを取り出してください。あなたはわたしの避け所です」(詩編31:4)
◇
さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。