マリヤはうっすらとまぶたを開けました。すると、暗がりに包まれた部屋が、白い粒子がちりばめられたかのように光り輝いていたのです。見慣れたはずの小さな部屋は、まるで神様の幕屋の中であるように神聖な空気に満ちあふれていたのです。
体は疲れているけれど、心は光を蓄えて、満ちてゆくのを感じていました。重い体を引きずって椅子に腰掛けると、マリヤは神様に祈りました。そして、椅子の背からカーディガンを取り、それを羽織って部屋を出ました。
台所では、お父さんはテーブルに腰掛け聖書を読んでおり、お母さんはその向かいで編み物をしておりました。マリヤに気付いてお母さんは編み物の手を止め、「まだ寝ていなければだめじゃない」と言いました。マリヤはお母さんに、「大丈夫」と伝えると、自分も椅子に腰かけました。
「聞いてほしいの、お母さん。・・・背徳の街で何があったか」。するとお母さんはお父さんをじっと見てから、うなずきました。お母さんは温かいミルクを沸かすと、それをマリヤに差し出して、深く椅子に座りなおしました。マリヤはミルクをすすり、深く息をつきました。そして口を開いたのです。
「お母さんもお父さんと心を合わせて、私の無事を祈ってくれたと聞いたわ。その祈りが聞き届けられて、私はこうして無事に帰ってくることができたと思う。この世界の支配権は悪魔に預けられているけれど、それでも世界がまだ美しく、神の均衡を保ち続けていられるのは、この世界に響く、祈りによるのだと知りました」
お母さんが言いました。「祈ったといっても、私は誰に対して祈っているのかさえ分からずに闇雲だったのよ。ただマリヤに帰ってきてほしくって」
マリヤはうなずきました。「お母さんの心のうめきのような祈りが、きっと神様の心をゆさぶったのよ。人の祈りはすべてが神様に聞き届けられるわけではないけれど、お優しい神様は、人の心のうめきに心を寄せてくださるから」
「何よりも、無事でよかったわ」。そう言ってお母さんはマリヤの手を握りました。その細い指を、マリヤもそっと握り返しました。
「お母さん、無事で当り前なのよ。私は、『インマヌエル・・・神はともにおられる』という約束のもと、背徳の街に行ったのだもの。・・・私は昔、背徳の街で神様に出会って、いのちは永遠であることを知りました。そして、神様はすべてを見ておられることも知りました。『主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている』(箴言15:3)とある通りに、神様の目はどこにでもあって、私たちの心のうち深くまで見つめておられる。そして、神を愛する者を我が子と呼び、必ず守ってくださるお方です。私の好きな言葉でね、神様はこうもおっしゃるの。『生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う』(イザヤ46:3、4)と」
お母さんは不思議そうに聞きました。「それほどに私たちを愛しておられるのに、神様はなぜ、この世を悪魔の好きにさせているの?」お母さんが今までになく素直に耳を傾ける様子に、マリヤは驚きを隠せませんでした。
「それは・・・神様がどんなに人を愛しておられても、私たちの心が悪魔を慕い求めているから・・・。『人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない』(ヨハネ3:19、20)と聖書にもあるわ。私もかつてどれほど闇を愛したことでしょうか。闇は甘く、その場しのぎの悦びなら、尽きることなく悪魔は与えもするでしょう。この人生が、からだの死によって終わるのならば、その場しのぎの悦びをつなぎあわせて一生を終えることだってできるのでしょう。しかし、本当の光を求めるならば、必ず通る門があり、それは十字架の形をしているのよ」
マリヤは母親を前に真剣でした。ミルクを一口飲んで口を潤しました。お母さんも真剣でした。神様のことはよく分からなくとも、マリヤの成長を見つめようとしていました。
「私は背徳の街で、さまざまな欲におぼれました。そして悪魔と手を取って、いろいろな罪を楽しみました。悪魔は、人が罪に陥ることを喜びます。なぜなら、罪こそが人をむしばみ、魂をも滅ぼすものと知っているからです。私は悪魔のささやきにつられて、暗闇の淵においやられ、生きることも死ぬことも許されないような苦しみの目にあいました。ずっと光や愛をねたんで生きてきましたが、初めて光を求めました。その時に分かったのです。神様はおられ、私をゆるしてくださる方であることを。ゆるしとは、ただ唯一の『愛』であり、私は神様の備えた『十字架』の門をくぐり、愛を知りました。『愛』とは、人間の発せられるものではないのです。それはあまりにもまったきもので、偽りやうつろいの入る余地のないものだったのです」
お母さんは残念そうに言いました。「私たちだってマリヤを愛しているけれど、マリヤの言う『愛』というのはそれとは違うもののようね」。マリヤはお母さんの手を撫でました。「聞いてくれる? 背徳の街の3日間で何があったか・・・。そこでも私は神様の愛を見たのだから」
お母さんはうなずきました。マリヤは湯気の立ったミルクをじっと見つめ、背徳の街での日々を思い返しました。甘い香りが心をほぐして、必要な言葉を導いてくれるようでした。
「『たすけて』・・・と書きなぐられたカードの住所は、背徳の街でも最も深い闇の中にあるという歓楽街からのものでした。そこで私は、差出人のアンナを含む幼い子どもたちが、悪魔にとらわれ、人間の欲望に売り買いされている姿を見たのです。それはあまりに悲しい情景で、悪魔のおどろおどろしさ、また人間のおどろおどろしさを知りました。神の光の届かぬ場所が、この世にあるのではないかと疑いました・・・。そしてそこには、最も悲しい女性の姿もあったのです。その女性は、悪魔の花嫁の一人とされて、悪魔に身も心もささげて傷だらけの女性でした。その魂は瀕死の悲鳴を上げており、『殺してくれ』と叫ぶ声が聞こえるようだったのです。私はそのような悪魔の囲いの檻の中で何もできませんでしたが、心は叫ぶように祈りました。・・・そして私の口を通して、祈りが与えられました。それは聖書の言葉、神様の言葉だったのです。それは悪魔の花嫁とされた女性に届いたのかもしれません。なぜなら聖書にこうあります。『神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる』(へブル4:12)。その言葉を証明するように、神様の言葉は彼女の心の深いところを刺したのです。・・・なぜなら彼女は己に火をつけるようにして、悪魔の囲いの檻を燃やしたのです。そして私と子どもたちは、そこから逃げ出すことができたのです。悪魔の屋敷のような歓楽街は、炎に包まれてゆきました。燃え立つ歓楽街の上には、ま白い光が広がっておりました。まるで神様がその大いなる『義』を示すように、空はま白く光ったのです。そして、悪魔の花嫁とされていたその女性が、炎の中でま白い光に包まれて、守られている姿を私たちははっきりと見たのです。・・・不思議でした。その女性は、まるで神の花嫁であるように白い衣装をまとって光り輝いていたのですから」
そう言い終えると、マリヤは息をつきました。お父さんは、うなずいて「まるでその街は、マリヤの訪れを待っていたようだね」と言いました。「私の訪れを?」「そうだ。聖書を携えて、マリヤがその街に行くことも、すべて神様のご計画のうちにあったんだろう」
お母さんは、「そんな恐ろしい所に行かせたなんて、情けないわ。よく無事で帰ってきたこと」と、涙ぐみました。「お母さん、私何も恐ろしくなかったわ。だって神様がともにあるのですもの。ただ、人々の悲しみや不幸が悲しかったわ」
お母さんはじっと黙った後で、「あなたたちは気がふれているわ。神だなんて・・・私たちがマリヤを守らなければ、いったいどうなってしまうというの?」と憤った様子で席を立ちました。そして、食卓のドアを音を立てて閉めると、寝室にこもってしまいました。
「いつかのように・・・」とお母さんは思いました。以前この家が、怒りや憎しみや軽蔑に満ちていたころ、マリヤは一人で家を出てしまったことを思い出したのです。そして2年にもわたってマリヤは行方不明だったのですから。
どれほど心配し、そして後悔したことでしょうか。やけになって「もともとあんな子はいなかった」と思い込もうとしたほどです。そして、平穏な暮らしに慣れて忘れてしまっていたけれど、夫を長いこと憎んでいたことも思い出し、お母さんは恥じ入りました。(そのせいで家庭は音を立てて壊れたのだ。)
「どうか私をゆるしてください」。ふと漏れた懺悔(ざんげ)の言葉に、驚いて口をふさぎました。しかし、マリヤの言う「十字架の門」を、心はにわかに探し始め、本棚にある「聖書」をじっと見つめ、またそらしました。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。