そのころ、マリヤは故郷の家のベッドの上に横たわっておりました。たった3日にすぎなかった背徳の街への旅でしたが、まだ心も体もくたくたで、起き上がることができずにいました。母親はマリヤを気遣い、白湯やそぼろ入りの白がゆを与えてくれました。
マリヤの胸には悲しみがありました。悪魔の懐の暗がりに住む人々の、底なしの虚無や不安が胸に迫るようなのです。陰府のふちで、助けを求める人たちのうめきが聞こえるようでした。背徳の街で見た景色、すれ違った人々の顔がまぶたの裏に浮かんでは消えてゆくようでした。
悪魔は神に似せて作られた「人間」をいとうばかりに、人間から神を奪いました。そして悪魔は圧倒的勝利者のような顔をして、今も世界を治め、人の命を奪い続けているのです。人もまた、神をいといました。高ぶりや憎しみや争いを許さない神をいとい、悪魔のささやきに心ひかれたのです。
しかし、マリヤに何ができるというのでしょうか。ただ、神が、神であられるのに、私たち人間の世界に生まれ、罪に汚れた人間にひざまずき、薄汚れた足を洗ってくださったことを、そのような神の存在を伝えたいと願いました。
・・・神がおられ、その方は本当に美しいお方で、どんな言葉も、その方を表すのに十分にはならないほどであること。咲き誇る花々もその方をたたえ、夜空の星のきらめきも、その方とともに生じたものであるということを。
「愛なくして生きられない」と人は口々に言いながら、その愛の不完全さにいつも傷ついているけれど、神の「愛」は、完全なる光のように、疑いや闇の入り込む余地もなく私たちを照らし導いてくれるものであるということを・・・。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)
神の言葉の一つ一つは、慰めや教訓にとどまらず「真理であり、命であり、道」としての力を持っていることに、マリヤ自身の目が開かれてゆくようでした。
「平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう」(エペソ6:15、16)
みことばが真実であることを、背徳の街への旅でマリヤ自身が学んだのです。いつかは悪魔と親密に語らっていたマリヤでしたが、今は悪魔もマリヤを阻むことはできなかったのですから。
「お父さん、私もっと何かできないものかしら」。甘いミルクを持って、寝室に訪れた父親に聞きました。父親はマリヤをじっと見て、「できるさ」と言い、ベッドの上の聖書を取りました。
「マリヤ、聖書にはこうあるんだ。『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう』(ヨハネ15:7)。またこうもある。『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである』(1ヨハネ5:14)。マリヤ、祈りこそ私たちの武器なんだ」
「祈りが私たちの武器・・・」。「そうだ『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである』(エペソ6:12)。そう、私たちはどれほどお前のために祈っただろうか。それを神は聞いてくださったから、こうして無事にお前が帰ってきたのだと思っているんだよ」
「お母さんも祈ったの?」。マリヤは目を丸めて聞きました。父親は笑ってうなずきました。「そうだよ。半信半疑の祈りだったけどね。元気になったらお母さんにも聞かせてやりなさい。一体あの街でどんなことがあったのか。どんな神の御業を見てきたのか」
マリヤは首を振りました。「お母さんには上手に話せる気がしないの。かたくなで、ちゃんと聞こうとしないのだもの」。「話せるさ」。お父さんはマリヤの頭を撫でました。マリヤはほほ笑みが漏れ、「上手に話せればいいのだけど。だって、あまりにも美しくて、あまりにも悲しい神の御業を見たんだもの」と、目に涙をにじませました。(つづく)
◇
さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。