「いつまで寝ているんだい?怠け者め!」。そう声がしたかと思うと、アンナはわき腹を蹴られて目を覚ましました。見上げると、この店にもう20年も暮らしているサダ姉が目を吊り上げておりました。
「仕事だよ、早く支度をして下にお行き!」。サダ姉の青いレースのワンピースは擦り切れてぼろになっており、ところどころに血の飛沫の跡がありました。体中に刃物を走らせた傷があり、かさぶたになっているサダ姉です。
アンナはサダ姉を見ると、自分の未来を見るようで寒気がします。なんでも、借金などないのに好きでこの店で働き続け、それは悪い薬欲しさからだというのです。その薬を体に入れると、この世では味わえないような幸せな気持ちになれるといいます。
「教えてやるよ」。それがサダ姉の口癖でした。そう言ってサダ姉は、この世のすべてを知った顔をして、少女や少年にいろいろなことを教えました。それは洗濯の仕方から、炊事の仕方、酔客の相手の仕方であり、そしてこの世界の秘密でした。
「この世界の主は悪魔と言ってね、それは私の夫なんだ。私の夫の悪魔はね、この世界のすべてを手にしている。分かるね、だから私に逆らってはいけないよ。夫は涎(よだれ)を垂らしておまえたちを簡単に食っちまうだろうから。夫は優しい人でね、私になんでもくれるんだ。私はこう見えてもね、この世のすべてを知っている。うらやましいかい? 私のようになりたいだろう。良い子にしていりゃもっといいことも教えてやろう。だから言うことを聞くんだよ。悪い子にしてたら私の夫に言いつけて、煮詰めて瓶詰にして売ってやるんだからな。お前たちのような幼子の瓶詰を欲しがる魔術師だっているんだからね」
そんなことを聞かされて、少年少女は震えあがり、サダ姉に逆らう者はおりませんでした。
少年少女のお目付け役であるサダ姉には、じゅうたん張りの小さな部屋が与えられておりました。サダ姉はその部屋に戻ると、壁を背もたれにして座り込み、小さなナイフを胸に当てます。
「あんた、寂しいよ、そばに来てよ」。サダ姉は小さく震えていました。どうしようもない寂しさや不安に、サダ姉の心はいつも震えているのです。そして胸の上に、錆びたナイフを走らせました。傷が生まれ、血がにじんでやがて滴になります。
するとその血をすくう不格好な指が現れ、血の付いた指を舐める舌が現れました。「よしよし。我が妻よ。おまえは本当によくやっている」。そうささやくのは悪魔の甘い声でした。
「あんたの敵は、けしてこの界隈には近づけないよ」。そう言ってサダ姉は悪魔の頬に頬を寄せました。「お前はよく分かっているね。私の弱さまでもよく知っている。・・・希望は裏切られるものと叩き込み、憎しみやねたみの炎を燃やし続けていなければ、『神』や『天使』と呼ばれる偽善者たちが、この世界を偽の光で照らそうとするだろう」
「分かっているわ。あなたと私は心ひとつ、言葉ひとつ。あなたが憎むものたちの気配を感じることもあるわ。神を信じるとかいうバカな連中もいるのよ。そいつらは私を嫌うのよ。罪深いのですって」。そう言ってサダ姉は笑いました。
悪魔は涎をごくりと飲み込んで、「お前たちに罪などあるものか。おまえたちはか弱いものだ。そのすべてをわたしは愛しているんだよ」と言いました。サダ姉は「それこそが、私の信じる神よ」と言いました。
悪魔にとってサダ姉は上出来の妻でした。そんな妻たちが悪魔にはごまんとおりました。そして悪魔はサダ姉を見つめ、マリヤのことを想いました。マリヤもこう育つはずだった、悪魔の愛児の一人だったのですから・・・。そう思い返しては、苦虫をかみつぶしたような思いがしました。しかし、そのマリヤがこの背徳の街に再び来ているのです。それは喉から手が出るほどの思いでマリヤを奪うことをもくろみました。
それもマリヤは今や、神を愛する娘となったというではありませんか。そんな娘ほどに憎いものがあるでしょうか。悪魔は「憎い」からこそ「欲しい」のです。悪魔は、愛児や愛妻と呼ぶものの誰一人も、愛することなどありませんでした。神によって造られ、神に似せて造られている「人間」の一人一人を、心ちぎれんばかりに憎んでいたのです。彼らが身を滅ぼしていくことこそが、悪魔の悦びであったのです。
その頃、肥えたこの店の女主人がアンナを叩いておりました。「あんなこともできないだなんて、なんてわがままな娘だろう」。そう言って頬を何度もぶつのです。
女主人はまるまると太った身なりに、派手な柄のワンピースを着ており、たくさんの宝石で指や頭を飾っていました。そしてタバコに火をつけて、一息吹かすとアンナの腕に押し当てました。
「今度わがままを言ったら、こんなことじゃ済まないんだからね」。そして、ひとしきりせっかんが終わると、再びアンナは酔客たちの相手をさせられるのです。酔客たちは、まだ幼い少年少女たちが大好きでした。それは、汚してはならないものを汚すような、背徳の歓びに満ちるからです。
人間は神様に、「良心」を授けられてこの世に生まれます。「良心」に逆らうことは苦しみを生み、本来人は「良心」には逆らうことのできないようにつくられました。しかし、それでも罪を犯してゆくうちに、その苦しみを誤魔化す物質が体の中に生じるようになったのです。それは「背徳の快楽」とでも言うべきもので、この世に誕生した最初の麻薬と言ってもよいのかもしれません。
この女主人や酔客たちは、もちろん罪深い者たちでした。しかし、すべての人が、この女主人や酔客たちと、大して変わらぬ罪びとと言われます。・・・罪とは何も、殺人や虐待や姦淫や盗みばかりを言うのではありません。力や見た目を盾にして自分を特別な者のように思ったり、人を軽んじてさげすんでみたり、人の夫や妻に心の手を伸ばしたり・・・。そう、私たちの誰もが罪にどっぷりと漬かった罪びとであるというのです。
神さまはこの世界を見渡して「善を行う者はいない、ひとりもいない」(詩53:3)とおっしゃいました。今や神の愛児となったマリヤにしたって、罪びとに変わりありません。マリヤは罪びとであるからこそ、「このあわれな罪びとをお救いください」と、神様にすがっているのです。
そして神様の愛児として歩んでいても、なおも誘惑に弱いマリヤです。悪魔はそんな心の弱みにつけいろうと、目を光らせておりました。マリヤは今、広場のベンチに腰掛けて、星ひとつ見えない空を仰ぎながら、「こんなところに来るんじゃなかった。自分だけがいい思いをしていたって良かったじゃない」と背徳の街に来たことを後悔していたのです。
広場の木々は、田舎の木々に比べて栄養もなく、やせ衰えておりました。瀕死の木々は、マリヤの家の庭の木々のように、豊かに語り掛けてもくれません。
「アンナだって、ひょっとしたらいつかの自分のように喜んで『猫吊り通り』で働いているのかもしれないし・・・。こんなところまで来て、『余計なお世話』だって言われるかも」。そう言って、足をぶらぶらと揺らしました。
おじさんたちは噴水のそばで酒盛りを始め、踊りだしており、マリヤはそれを見てため息をつきました。「どうして来てしまったのかしら。私に何ができるというのよ」。そうつぶやいて、ベンチにうずくまりました。
遠くでサイレンの音がひっきりなしに響いていました。街からは、喧騒のざわめきと供宴の音楽が遠く聞こえてくるようでした。まるで、世界が波のように遠のいていくように感じて、マリヤは孤独を感じていました。実家の父と母、庭の花や木々たちに会いたくて涙が出そうです。
その時、「マリヤよ」と声がしました。「愛するマリヤよ」。甘い声が響いて、瀕死の木々が手を伸ばし、マリヤを抱きしめようとするようです。
「よくこの街に来たね、マリヤ。この街は、私のすみか。私とお前の思い出の街。私たちがどんなにここで愛し合い、お前がこの街でどんなに美しかったか、思い出してほしい」。その声にマリヤの記憶は呼び覚まされるようでした。それは、悪魔の得意な甘く響く美声でした。
「マリヤ、今度こそお前をお嫁さんにしたいと、私は花嫁衣裳を準備しているんだよ。きっとおまえをこの街のきらびやかな女王にしてみせよう。この街のすべてをお前にあげたっていいんだよ」
マリヤは懐かしさとともに、恋しさのような気持ちが湧き出ていることに気付きました。悪魔・・・マリヤは昔、その残酷な支配主を、心から恋い慕っていたのですから。
「ずいぶんみすぼらしくなったものだね。あの頃のお前はもっと欲望に心を燃やし、憧れに身をやつし、輝いていたじゃないか」。マリヤは驚いて返しました。「私が輝いていたですって? 憎しみにまみれて、みじめで孤独だったわ」
風は柔らかくまとわりついてマリヤを誘います。「そう、強欲で、そしてみじめで孤独でもあった。・・・しかしそんな弱いお前は、やせ衰えながらも必死に生きていて、それは美しいと私は思っていたんだよ。一体神がお前に何をくれたんだろうね。おまえは丸々太ってぜいたくをした子豚のようで、ずいぶんと醜くなったじゃないか」
マリヤは膝を抱えて、頭をうずめました。悪魔はそんなマリヤの頭を、風が撫でるように撫でました。「お前のことをよく分かっているよ。マリヤ。昔の自分を否定して、神に仕えようと頑張っているんだ。でも否定をしないでほしいんだ。この街にいたお前は、罪に溺れていようとも、それは一生懸命生きていたんじゃないか。今のお前はどこかしら、やせ我慢をしているように見えるけど、それは私の気のせいかな?」
マリヤは心がざわめきました。悪魔と共にこの街に暮らした、思い出がよみがえるようだったのです。
真夜中に口紅を引くと、自分が特別になったような気がしたこと・・・。そして、悪魔を恋い慕うように悲しい歌を歌っては、夜を明かしたこと・・・。朝が来ると、香ばしいアーモンドスープを飲みながら、孤独を愛したこと・・・。誰も愛しておりませんでしたから、なにをしようとも、心はちくりともしませんでした。誰も愛しておりませんでしたが、自分をとっても好きでした。
「やせ我慢なんてしていないわ」。マリヤは首を振りました。「この街で生きていた私は、もう死んだのです。いつか、あなたを触れられるほどにそばに感じていたように、今私は神様を、触れられるほどそばに感じているのです。あなたが私に与えてくれた、『孤独』や『憎しみ』のスープを、私は喜んで飲みました。しかしそれは、神様の食べ物を知らなかったあわれな私にすぎないのです。神様は、『わたしの民』と呼ぶ愛する者たちが飢えたときには、『マナ』と呼ばれる輝くパンを天から降らせてくださったといいます。神様を信じない者は、それは滑稽な幻であると言うでしょう。しかし、神様を信じる者たちは『マナ』を食べた、かつての民と同じに、日ごとに神様から輝く蜜を天から滴らせていただいて、浴びるようにそれを飲んでいるのですから」
悪魔はひるみ、眉をしかめました。「その・・・神の与える蜜は、私が与えるものに勝るというのかい?」。マリヤはうなずきました。「あなたは私を孤児としました。しかし私の愛する神は、『私はあなた方を捨てて孤児とはしない』(ヨハネ14:18)とはっきりとおっしゃる方なのです。もう、人を憎むことも、人生を憎むことも、神様を憎むことも私はしたくないのです。あなたの与える杯を私はもう飲みはしません」
不思議です。そう口にするともう、マリヤは悪魔が怖くはなくなりました。「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう」(ローマ16:20)。「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だからあなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう」(ルカ10:19)。その言葉通りに、この世の支配者である悪魔をも、弱々しく感じるだけの力がマリヤに宿っておりました。そしてそれこそ、神様がマリヤに与えてくださった備えだったのです。
悪魔は、それは恐ろしい形相で、後ずさりをしたかと思うと、「私を侮ることは許されない」と静かに言い残して去って行きました。
マリヤは深く息をつき、朝を迎えようとしている背徳の街を眺めました。カラスたちが空を飛びかい、夜のうちに出た残飯を漁るために街を目指します。夜空は赤みを帯びて、太陽の訪れを予感させます。静かにビルディングは、焼け付くようなオレンジ色に染まっていきます。この街の光も届かない暗闇に、アンナがいることを想いました。「たすけて」と走り書かれたカードをもう一度見返して、うなずきました。
「きっとあなたを助けるから。・・・ごめんなさい、ここに来たことを後悔なんてしたこと」。そうつぶやくと、真綿のように優しい光に包まれました。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。