「アイリッシュマン」を観終わって心に浮かんだ聖書の言葉「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)は、まさに本作の主人公たちすべての人生を言い表した言葉である。
イタリア系マフィアが台頭し、米物流業界のドンであるジミー・ホッファ(アル・パチーノ)と手を組んで第2次世界大戦後の米国を実質的に支配し始めたとき、ホッファに認められてマフィアの出世街道をまい進するフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)は、何をやってもうまくいく幸せの絶頂にあったといってもいいだろう。文字通り「全世界を手に入れた」状態である。そこにシーランをホッファに推薦したマフィアのラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ)が絡んでくる。シーランがアイリッシュ(アイルランド系)であったことから、彼は「アイリッシュマン」と呼ばれていたという。そこから本作のタイトルは取られている。
しかしホッファが、司法長官ロバート・ケネディの策にはまって投獄され、5年後にリチャード・ニクソン大統領に多額の賄賂を渡して出所してきたころから雲行きが怪しくなってくる。3人の関係に微妙な隙間風が吹き始め、利益を優先するマフィアの論理と、仁義を大切にするホッファの考え方がついに「限界点」を迎えたとき、その間で「組織人」として生き抜いてきたシーランは、究極の選択を迫られることになる。
兄のように慕うとともに、仁義の世界で自分を引き上げてくれたホッファを思う気持ちがある一方、マフィアの殺し屋として、すでに30人以上を殺(あや)めてきた彼に、組織に逆らう選択肢はない。シーランはいつも「殺し」を「仕事」と割り切っていた。だから言われたことが法に触れることであると分かっていても、そこに葛藤を抱えることなくその指令を「実行」できたのである。
彼の論理としては、「それは自分が考えることではない」「やれと言われたから、組織の人間としての責務を果たすだけ」ということだろう。その結果、彼の家族は裕福な生活を送ることができ、抗争の最中にあっても安全が保証されたのである。
一連の抗争が収まり、その関係者が刑務所に入れられたり暗殺されたりする。このあたりはまさに「ゴッドファーザー」の名シーンを彷彿(ほうふつ)とさせる迫力と緊張感である。
だが、この先を本作では丹念に描き出している。「その1」で触れた「ラスト30分」である。時が流れ、シーランも80歳を越える老人となっている。映画の冒頭に登場した老人ホームのシーンが再び出てくる。彼は歩くこともままならず、車いす生活を強いられている。印象的なのはその後に登場する2つのシーンである。
彼は両方の手に杖を持ち、銀行へと向かう。思うようにならない体でわざわざ外出した彼の真意とは何か。これが一つ目。もう一つは、さらに死期が近づいたシーランの元に、FBI捜査官が訪ねてくるシーン。二回り以上年下の捜査官から「失踪したジミー・ホッファのことを知りませんか」と尋ねられたとき、彼が一瞬浮かべる苦悶(くもん)の表情――。ここに本作を製作した真の意図があるように思えた。
マーティン・スコセッシ監督といえば、確かに破天荒な主人公が数奇な人生を送ったり、常軌を逸した言動を繰り返す暴力的な人々が虫けらのように殺されたりする映画が多くあった。その間に彼のカトリック信仰を垣間見せるような、恐ろしく宗教的色彩に富んだ「落ち着いた映画」を世に送り出してきた。
考えてみると、本作で主演級として登場する者たちは皆70歳を越えている。そしてスコセッシ監督自身も77歳である。そう考えると、本作は「今までやりたいように生きてきた男たち」の公開総懺悔(ざんげ)的意味合いをも持ち得る作品であるといえよう。
物語後半、ジョー・ペシ演じるバッファリーノの取り巻きであった組織の人間が、年老いた姿で登場する。そこにはかつての威光ある姿がまったく見受けられない。そして80歳を越えたシーランが老人ホームで無数の薬剤を頬張るシーンは、過去にどんな優雅な生活をしてきたとしても、人生の終焉(しゅうえん)の悲しさとむなしさを感じさせるに十分である。
考えてみると、ここまで年老いたマフィアの姿を真正面から描いた作品はない。ほとんど途中で殺されるか、監獄に閉じ込められるか、または亡くなった後にモノローグで反省の弁を述べるかしかない。「ゴッドファーザー」シリーズでも、孤独に死にゆくマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の姿を一瞬しか描いていない。
しかし本作は、この過程をじっくりと30分かけて観客に訴え掛けてくるのだ。シーランは今まで犯してきた罪を告白するのだろうか? もしするとして、それを誰に打ち明けるのだろう? さらに思うのは、彼の人生は幸せだったのだろうか?ということである。老人ホームに家族の姿はない。誰も会いに来ないのだろう。
本作のラスト30分で描かれる主人公の姿は、決して特殊なマフィア世界の人間の成れの果てではない。日本においても、組織人として生きる者たちが抱えている「無自覚の悪」は、ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントが言及した「悪の陳腐さ」に通ずるものだろう。
自らの「職務」をこなすだけで、その言動の善悪を考えることをしない風潮に対し、本作は「それであなたは本当に幸せですか」と問い掛けてくる。それだけではない。父が子どもに対し「良かれ」と思ってした言動は、本当に子どもたちにとって「良きこと」となり得ているのか、という親子関係の齟齬(そご)についても考えさせられる。
これらのことは、現代のキリスト教会においても当てはまる問い掛けである。信徒が単に「牧師先生がおっしゃることだから」とか、「毎年教会で行っていることだから」という理由で、ある種「信仰的」という奇麗な言い回しを使いながらも、何も考えずに教会活動に従事するとしたら、それは果たして「尊い奉仕」といえるものだろうか。
さらに「教会に若者が来てほしい」と願う気持ちはあったとしても、彼らが「来たい」と思えるような雰囲気を作り得ているだろうか。大人の論理で、一方的に「良いこと」を決めてはいないだろうか。「聖書的」という名の下に・・・。
本作「アイリッシュマン」は、おそらく私の2019年の年間ベスト3に入る映画であろうし、生涯ベスト10にもランクインするくらいの傑作である。これはマフィア世界を舞台としているが、描かれているのは「人生」である。家族と向き合う「人の生き方」であり、組織の中で生き抜く「人の生き方」でもある。そして何よりも、神の前に立つ「人の生き方」が最後に問われている。
性的に過激なシーンは皆無であるから、多少の血しぶきさえ我慢すれば、社会の中で「組織人」として働く教会の男性たちと一緒に鑑賞し、話し合ってみるのもいいかもしれない。例えば年末年始、じっくりと時間を取れるときに、ゆったりとソファーに腰掛けて3時間半、そしてお茶でも飲みながらフリーディスカッションしてみると、信仰者として生きる私たちの生き方が、新たにされる感覚を抱くことができるのではないだろうか。
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