お前は奇跡を体験したことがあるのかと問われると・・・
イスラエルの民がヨルダン川のエリコの前面で、流れを前にしているとき、「やがて水が枯れ、乾いた地を渡るように民も契約の箱も渡ることができる」と預言し、その通りになったのは奇跡であったと言うべきでしょうか。実は、上流数十キロにある町アダムのところでヨルダン川の両岸が崩れ、川にせきが出来たようになりました。このため、水がたまって、しばらく流れが止まり、数時間後に下流のそのところで水が枯れたようになったのです。(ヨシュア記3章)
これは、別に科学に反することでもなく、本来不思議なことではありません。しかし、両岸崩落の情報を知り得ない状況の中では予測不可能なことだった、つまり奇跡であったといえます。
奇跡とは、人間のそれまでの経験や科学的な洞察力では到底あり得ないと思われる事態や現象が起こること、と定義できるでしょう。ところが、その人間の経験や科学的洞察力も時代や地域によって変わる相対的なものです。3千年前ならあり得ないと思われたことが、科学技術の進んだ現代なら、あっても不思議でないというものがたくさん出てきました。昔の奇跡を科学的に説明できるようになるかもしれません。でも、その時代、その地域、その人には奇跡でないとは言えないでしょう。
今の時点で考えても、理解不能というものが、聖書の奇跡として残っています。そのようなものに私が出逢ったことはありません。
しかし、私が高校生だったころ、自我に固まって、孤独で、陰鬱(いんうつ)な顔をして、先行きの見通しもなくて、「別に生き通さなくてもいいや」と考えていたのが、あるときキリストの神様に出会ってから、徐々に明るく希望を持って、イキイキと生きられるようになったのは、私には全く予想外のことで、私に奇跡が起こったと思っています。少なくとも、そういう意味の奇跡を体験しています。
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