褒められたい、称賛されたい、ということは悪いことなのか。
人は生まれて以来一貫して“よく見られたい”という願望の中で生きています。「お利口だね」から始まって、「よくできる子だ」「素晴らしい才能だ」「よく切れる人だ」「立派な人だ」「素晴らしい人だ」「美しい人だ」などなど。
人はみな、このように言われたい、褒められたいといつも心の底で思っています。それが励みになって努力する。また良い心掛けで生きる。それならいいのですが・・・往々にしてそれは度を越しやすく、発展して自己欺瞞(ぎまん)に陥ったり、虚栄を追い求めることになりがちです。
その空しさについて兼好法師は「つらつら思えば、誉れを愛するは、人の聞きを喜ぶなり。褒むる人、譏(そし)る人ともに世にとどまらず。伝え聞かむ人またまたすみやかに去るべし。誰をか恥じ、誰にか知られむことを願わむ」と(徒然草第38段)。
人が褒めるところに自分の外観を合わせようとして、自分を偽る。自分もまた自分にだまされて自分が立派だとか、正しい人間だと思いやすい。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」(ガラテヤ6:3)
多くの人が、他人の想念の中で架空に生きようとし、そのために見栄を張ろうとするようです。「われわれは絶えず架空の存在を飾り、それを維持しようと努め、自己の真の存在をなおざりにする」(パンセ147)。「我々は周囲の二、三人からくさされれば際限なく惨めな気持ちに陥ったり、恨んだりするが、逆に、周囲の五、六人から褒められれば、有頂天になって、満足する。それほどまでにわれわれは空虚である」(同148)。「この世の迷妄のうちで最も広範なものは、評判や名声に対する願望である。我々はそれを得るためには、富も平安も生命・健康といった(実体的な)ものまでも棄てさって、この実態もとらえどころもない幻影・音響を追い求める」(モンテーニュ随想録1巻41)
以上のように、褒められたい、称賛されたいという願望、およそ他人がもたらす毀誉褒貶にとらわれることは、虚栄であり、他人の想念に流される浮き草です。真実の自己を隠すベールです。これを追わない、これに惑わされないのが賢明のようです。
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