不思議です。大嫌いだった朝の景色が、輝いて見えるのです。今まで花なんて見たことがなかった汚い路地に、ここにも、そこにも、小さな野花が顔を出していることに気付きました。まるで今朝、マリヤのために咲いてくれたかのように、マリヤの歩く先々で、野花を見つけることができました。
この冷たい冬の朝も、たくましく根を張り、誰にも見られていなくても、愛しい人を一心に見つめて咲くような野花に、マリヤの心は震えました。
今までどんなにたくさんの人に囲まれて、賑やかにお喋りをしていても、とっても孤独に思っていたのに、たった一人病に侵されながら歩く路地において、マリヤは孤独ではありませんでした。喜びがありました。
青ざめた顔で歩くマリヤを、道行く人はけげんな顔をしてよけて行きます。それでもマリヤは、笑みを浮かべ、花を数えて歩きました。
太陽は煌々(こうこう)とマリヤを照らしましたが、もう太陽が怖くはありません。陽の暖かさを、神様の肌のぬくもりのように愛おしく感じておりました。
喉の渇きを覚えたマリヤは、広場の水道を目指しました。あそこに行けば、新鮮で冷たい水がたくさん飲める、と足は急ぎました。それでも急げば急ぐほどに、よろめいたり、つまづいて転んでしまいます。何度転んでも立ち上がりました。どこからそんな力が湧き出るというのでしょう。胸は熱く火照っており、動悸は激しく、息も絶え絶えだというのに。
ようやく広場にたどり着き、水道の蛇口をひねりました。もうろうとして視界は曇り、頭から水をかぶるようにびしょ濡れになって水を飲みました。ごくごくと飲み干し、胸のほてりを冷まそうとしたのです。
その時、「病人、病気がうつるからここの水は飲むな!」と声がしたかと思うと、マリヤは足を蹴られました。大きくよろめき、地面に倒れ込みました。
がやがやと声がします。「病気がうつるよ」。「青ざめてるじゃないか。誰か助けてやれよ」。「死んじゃうんじゃないか」。濡れた服が体を冷やし、今度は寒くなりました。マリヤは体温を逃さないように、地面に倒れたまま体を丸めました。
「・・・神様」。マリヤはつぶやきました。「私を、あわれんでください」。そう言って目を閉じました。体はガクガクと小刻みに震えておりました。それでもマリヤはあたたかさを感じていました。太陽の光線は虹色の光のまゆとなって、マリヤを包むようでした。その中でマリヤは安どして眠りにつき、白昼夢の中で声を聴きました。
(女がその乳飲み子をわすれて、その腹の子をあわれまないことがあろうか。)
(たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れない。)
マリヤは白昼夢の中で、体のどこにも痛みや苦しみを感じませんでした。自分の肉体がぶるぶる震える振動を遠く感じながらも、凍える寒さなどどこにもなく、ただ、あたたかくやわらかな光の中で、優しい響きの声色に包まれておりました。そのあたたかい光とは、神様のまなざしそのものでありました。
(見なさい、わたしは手のひらにあなたを彫り込んだ。)※6
そして神様は、「マリヤ」と名の刻まれた手のひらを見せてくれたのです。その神様の手のひらは、まるで太いくぎに打たれたかのように、大きくえぐられておりました。ただの釘の跡でありながら、その跡は確かに「マリヤ」と読めたのです。
・・・しかし、悪魔も最後の抗いをしておりました。「裏切ったものは・・・言っても聞かないものは、殺す」。それが悪魔の掟であり、見せしめでした。
どれほど眠ったことでしょうか。眠りの中で何度も生死をさまよったことは、もう覚えておりません。マリヤはうっすらと目を覚まし、冷たい汗をぬぐいました。
そこは夜も更けの広場でした。広場の隅の、木々が生い茂る土の上に、マリヤは寝かされていたのです。体の下には段ボールが敷いてあり、体の上には幾重にも、毛布やジャンバーがかけられておりました。
見渡しても誰もおりません。しかし、枕元に袋詰めのパンと瓶に入った牛乳が3本も置かれてあったのです。誰かが毛布を掛けてくれたのでしょう、そして食べ物や飲み物を与えてくれた人もいたのでしょう。
マリヤは手を伸ばし、パンの袋を破りました。そして手に取ってかじりました。クルミ入りの、甘い甘いパンでした。そして牛乳のふたを開け、ごくごくと飲みました。マリヤの頬に銀色の涙が伝いました。この街に来てから、これほど人の心を近くに感じたことはありませんでした。
この街に来た初めの頃、「人にあわれまれるくらいなら、死んだほうがまし」なんて言っていたものです。そしてマリヤは化粧を覚えました。誰にも馬鹿にされないように、ましてやあわれまれたりしないように。
それなのに今、人のあわれみがこんなにも温かであることをマリヤは教えられたのです。あわれみ、それは愛の中でも最も尊いものであり、人が神様によって造られた証しであるのかもしれません。悪魔に支配された街において、心臓に爪痕を残された人々であっても、「あわれみ」まで奪うことは、悪魔であってもできなかったのです。
マリヤは人をねたみ、憎んできたことを後悔しました。そんな自分こそあわれであったと思いました。マリヤはパンを口いっぱいに頬張って、「私をあわれんでください」と言いました。そして、広場の向こうにそびえ立つビル街、背徳の街の色とりどりの明かりを見つめ、そこに生きる人の一人一人を、心から近しく感じました。
人はあわれなものなのです。誘惑に弱く、簡単に罪の甘さのとりこになります。人を憎むことは簡単で、愛することのなんと難しいことでしょう。「神様はきっとどこかにいる」そう遠く想いはせても、昨日も今日も、そして明日も、口先ひとつで人をたやすく殺すのです。そんな、罪から逃れられぬ私たちは、あわれな生き物でしかありません。そしてあわれみとは、最も高価な愛であるのかもしれません。
マリヤは野花を束ねたものを抱えて、広場に座っておりました。行き交う人々は、あわれみのまなざしを向けてマリヤの前を通り過ぎます。マリヤの前に置かれた紙コップに、時折ちゃりんと小銭が入れられます。
「ありがとうございます」。マリヤは野花を渡します。マリヤの服は擦り切れて、所々破れたぼろになっておりました。ずっと洗っていない髪の毛も、脂が浮かんでテカテカと光っておりました。
マリヤは故郷に帰る汽車賃を貯めていたのです。「あたたかい光のともった夕べ」の記憶は、日増しに鮮明に思い出され、父と母を懐かしく思いました。父はお酒におぼれて、今頃体を悪くしているかもしれない。母は内職の仕事をしすぎて、疲れ果てているかもしれない。自分のいなくなった家で、母が父につらく当たられていたらどうしよう。そう思って心配でした。
もう一度仕事について汽車賃を貯めようとも思いましたが、うわさ話の巡りの早いこの街です。「何か悪い病気を持っている子だ、気を付けろ」と雇ってくれる人はありませんでした。早く故郷に帰りたい気持ちから、お金を稼げた日でさえも宿を取らず、広場で眠るようになりました。
広場には、同じようにそこで眠る人たちもたくさんいました。夜になると広場の至る所でたき火がたかれて、皆が身を寄せ合って暖をとりました。そしてわずかな食べ物を、回しあって分け合いました。
「・・・でもな、そんな暴力親父のところに帰っても、幸せになれるとは限らねえぞ」。なじみのおじちゃんは、マリヤの話をよく聞いてくれました。「うん。分かっているの。また家を出ることになるかもしれないわ。それでも帰りたい・・・お父さんとお母さんに会いたいの」
マリヤはそう言ってうつむきました。マリヤの頬を暖炉の火が照らしていました。おじちゃんは、小魚の油漬けをマリヤに渡して、「そうか。おじちゃんはもう帰る故郷もなくしちゃったし、親の死に目にも会えなかったよ。それだったら帰るといい」と言うと、つらそうに空を眺め、お酒をぐびっと飲みました。
マリヤはパンをちぎって、隣の少女に渡しました。その少女は、いつしかマリヤの部屋から飛び出した少女です。少女は、この広場で目を覚ましたマリヤに食べ物を与えてくれました。いつしかの過ちも赦(ゆる)し、洋服や下着も分け与えてくれたのです。
少女は、この広場や駅の構内で、一生懸命造花を売っており、マリヤもよく一緒に花を売りに出掛けました。この広場の大人たちは、まるで自分の娘のようにマリヤたちを守ってくれました。
この広場に集まる人は、皆が心に大きな痛手を抱えていました。その傷をかばうように、自分にも、他人にも優しくする人が多かったのです。マリヤもこの街で、たくさんのことを経験しました。今なら、父の苦しみや母のつらさも、理解できる気がしていました。
不思議でした。あれほど鮮明に見えていた「悪魔」も「神様」の存在も、今ではその影もうすれ、悪魔や神様と共にあった日々を、幻を見ていたかのように思うのです。確かに聞こえた神様の言葉も、幼いころに聞いた父親の言葉だったような気がします。しかし、自分は確かに悪魔にも神様にも出会い・・・それこそが本当の世界であったと思っていました。
それを証しするように、マリヤは神様を信じていました。野の花のほほ笑みに、風の優しさに、光の励ましに、夜闇のあわれみに、確かに神様を感じるのです。
人の通る気配に「花はいかがですか」と、野花を差し出した時でした。「マリヤ」と名を呼ぶ声がして、顔を上げました。そこにいたのは、ひげ面で、顔立ちもよく見えない男・・・登山用の大きなリュックを背負って擦り切れたジャンバーとズボンを履いた、長旅の果てに変わり果てた、父親の姿でした。
マリヤはとっさに逃げようと思いました。しかし父親はマリヤの細い腕をとり、おもむろに抱きしめたのです。父親からは、むせかえるほど甘い汗の香りがしました。
父親は、何も言わずにマリヤを広場の水道に連れて行くと、手ぬぐいを濡らし、マリヤの髪や手足を拭きました。何度も濡らして、何度も拭き続けました。髪の毛の一本一本をその手に取って、靴を脱がせて足の指の一本一本まで丁寧に、垢と油をふき取ってくれたのです。そしてすっかりきれいになると、父親はリュックサックの中からビニール袋を取り出して、公衆トイレを指さしました。「これに着替えて来なさい」
マリヤは何も言わずに、袋を受け取り、公衆トイレに向かいました。トイレに鍵をかけて、袋を丁寧に開けました。そこには、赤いピカピカの靴と白い襟のワンピースが入っていたのです。まっさらな下着と靴下も入ってありました。
マリヤは驚きました。その服と靴は、いつか故郷の洋品店で、マネキンが着ていたものでした。マリヤはそれを欲しがり、マネキンの前に立ったまま動かないでいたのです。しかし父親はそんなマリヤを置きざりにして、すたすたと店を出て、家に帰ってしまったのです。
マリヤはワンピースを抱きしめて、胸が詰まる思いがしました。父は自分になど、興味もないと思っていました。けれど父は、マリヤが欲しがったもののこともちゃんと覚えてくれていたのです。
マリヤは父に与えられた衣服に着替え、トイレの鏡をのぞき込みました。そこにいたのはまるで、マリヤがずっと夢見ていたような、「愛されたかわいらしい娘」のようでした。
トイレを出て、父のもとに歩いていると、「背徳の街」は夕暮れに染まり始め、父も西日に照らされて、ひげの一本一本が金色に輝いておりました。ひげの父親は、なんだか頼もしく、たくましく、懐かしくありました。
「お父さん」。マリヤは呼び掛けました。父はマリヤを見ると、うれしそうに目を細めたかと思うと、しゃくりをあげて泣いたのです。マリヤは父親のそばに座り、その荒れた手や、垢だらけの顔を見つめました。どれほど長い間、マリヤを探したというのでしょうか。
「自分は愛されていない」そう思って家を出たはずでした。まさかこんな形で、そんな確信が揺らぐことになるなんて、思いもよらないことでした。
「お母さんは?」と、マリヤは小さな声で聞きました。「お母さんは、コロッケを作ってくれるよ。マリヤはコロッケが好きだろう。早く帰らなきゃな」
まるでマリヤの家出がなかったことだったかのように、父親はそう言いました。マリヤも、まるでこの街での歳月がなかったかのように、「そうか。じゃあ早く帰らなくちゃね」と言ったのです。
マリヤは、広場のみんなに別れを告げると、父親に手を引かれて、駅に向かいました。広場のみんなは涙を流して喜び、そして悲しんでくれました。
列車に乗ってしばらくすると、大きなサイレンをとどろかせて、列車は動き出しました。ネオンの明かりのともり始めた背徳の街を背に、マリヤは故郷に帰るのです。
父親は、リュックの中からパンとミルクコーヒーを取り出して、マリヤに渡してくれました。マリヤはそれをかじりながら、背徳の街が遠ざかって行くことを感じていました。まるで糸に引かれるように、未練も感じておりました。
この街で、いろいろなことがあったのです。悪魔にすら出会い、「お父さん」と恋い慕いました。悪魔はとても魅惑的に死へといざない、マリヤは悪魔の虜になって死を切望しました。たくさんの人にも出会いました。皆弱く、罪深く、あわれまれるべき愛しい人たちでした。たくさん優しくもされました。あわれみを受け、今日まで生きることもできました。
そして、神様にも出会ったのです。確かに神様ご自身が、マリヤのところに現れて、マリヤを立ち上がらせ、生き返らせてくれたのです。
「お父さん、私分からないことがあるんだけれど」。マリヤはふと目を上げて聞きました。「何だい?」。それは、幼いころの記憶です。父親が分厚い本を開いて、マリヤに聞かせた言葉がありました。その言葉の一つ一つを、マリヤは鮮明に思い出していました。
「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた。彼は自ら懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によってわれわれはいやされた」
父親は、パンをかじる手を止めました。「マリヤ、その言葉は何だい?」。「お父さん、この言葉を知っているでしょう?」
父親は、遠い目をして昔を懐かしみ、「昔お父さんが読んでいた本だね。どうしてそんなもの覚えてるんだ?」と聞きました。マリヤはパンを一口かじり、もぐもぐと噛みしめながら、「不思議と思い出しているの」と言いました。そして、「お父さん・・・この『彼』のことを教えてほしいの」と聞きました。
父親は恥ずかしそうに照れ笑いして、「『その人』のことを、お父さんもずいぶん永いこと忘れてしまっていたんだよ。・・・マリヤは、なんでそんなに知りたいんだ?」と聞きました。マリヤは口ごもり、恥ずかしがりながら、「その方に会った気がするから・・・」と言いました。
父親は自分の足元をじっと見つめて、何か考え事をしているようでした。そして、「そうか」と言ってほほ笑みました。そして、父親は口を開きました。
「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かっていった。主はわれわれすべてのものの不義を彼の上におかれた」
マリヤは真剣なまなざしで、父親から語られる言葉を聞きました。「彼はしえたげられ苦しめられたけれど、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く子羊のように、また毛を切るものの前に黙っている羊のように、口を開かなかった・・・」※7
その時、ふいに悪魔が吠えたぎる声が聞こえました。マリヤはとっさに振り返り、車窓から背徳の街を見つめました。背徳の街は、赤や青、紫やピンク色、いろいろな色でちかちかと明滅しておりました。ネオンの明かりが夜闇に滲んで、燃えたぎる炎のように見えました。すると、ぽつぽつと車窓を雨が打ちました。
まるで神様が私たちをあわれんで、涙を流しているようでした。(おわり)
<引用聖句 口語訳聖書>
※6(イザヤ49章16節)
※7(イザヤ53章5~7節)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。