“復活”なんて、なくていい。この世の人生が楽しければそれを楽しめばよい。つらければ早く消え去ればいい。後世を考えて縛られたくない。
これはある種、動物的な人生観ですね。人生を、社会を、世界を見つめない。考えずに、ただ流されるままに生きる、と。しかしそうはいっても、やはりどこかで考えていますね。人間は動物や植物と違って考える存在ですから、考えずにはいられないんです。「人間は考える葦である」とあの有名な書にもあるように。
しかし考え出すと、なかなか複雑怪奇で考え切れないのもまた事実です。藤村操という明治期の一高生が「人生は不可解だ」との遺書を残して、華厳の滝から投身自殺をしたことで有名ですが、前述の通り、万人にとって人生は不平等に満ち、不条理が多く、あまり満足をもたらさないものです。しかも、運不運といった不合理なものにかなり支配されています。この世の人生だけで見たのでは分からないものだらけ、不可解そのものです。
ところが、復活、死後の生を考えると、そうした不可解が理解できるようになるのです。その間の事情をアウグスティヌスは《秩序》という文の中で示しています。「この世の人生は刺しゅうの裏側を見ているようなものだ。糸が無秩序に筋交うばかりで何のことか分からない。しかし、復活の朝には、それを表から見る。すると、きれいな模様か絵かが描かれているのが分かる。だから今は、見ることができない表側に意味のあるものが描かれつつあることを信じて歩むことにしよう」と。
復活がないと、人生の真意義を見る機会はなく、人生は不可解のまま終わるのです。しかし、復活の暁には得心がいき、大満足することができるのです。流れ去り、消え去るために生きるのではもったいないですね。どうにかして、復活に達しましょう。
◇