聖書はこう語っている。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)。
聖書の表現方法は、私たちが普段使う表現方法とは違う場合があるが、これもその一つといえるだろう。「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」とは、どんな意味であるか少し説明したい。
普通に日本語を理解するならば、「自分を捨てる」のに、「自分の十字架を負う」というのは、どういう意味なのか理解不能である。
しかしこれは聖書的な表現であり、「自分を捨てる」とは、自分が持つ「重荷」を捨てることだと解釈できる。イエスは「重荷は私のところに持って来なさい」と語っている(マタイ11:28参照)。「重荷」はイエスが引き取り、私たちはイエスのもとで休められるのだ。
次に「十字架を負う」と聞くと、何か悪いことをしてしまい、それを償っていくようなイメージがあるが(十字架刑は当時用いられていた公開処刑の方法だった)、聖書で言う「十字架を負う」とは、「神の使命を果たす」ということができる。実際イエスは、十字架を背負って神の使命を果たされた(ルカ22:42参照)。
だから「自分の十字架を負う」とは、神様が自分に下さる道や仕事、役割を受け入れて、その道を歩み、それを行うことだといえる。そのためには、神様に自分をお任せする、つまり「自分を捨てる」信仰が必要である。
このお方にお任せしていたら間違いがないし、必ずよくしてくださる、そういうイエスとの信頼関係なしに、自力で「自分の十字架を負う」のは不可能であり、健全でもない。
では、イエスとのそのような信頼関係は、どうやって築くのか。それはイエスのもとにいて、イエスとよく交わること以外にない。イエスは私たちをそのみもとに招いている。イエスのもとで自分の重荷を下ろした人が、神様が下さる「自分の十字架」を負うことができるのである。信じるとは頭で信じるのではなく、その道に歩むことである。
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箕輪勇気(みのわ・ゆうき)
1981年名古屋市生まれ。2002年受洗。05年から4年間、神学校(信徒向けコース)で学び、現在は社会人として働きながら妻と共に一般信徒として教会に仕える。2児の父。