聖書は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)なんて言っている。・・・無理。敵を憎むなら分かるけど、敵を愛するなんて無理。私にはそこまでの深い愛はない。
でも、ここでは「愛する」ことと「祈る」ことがセットになっている。どいうことだろうか。多分こういうことだと思う。
私の職場では、休憩時間には必ず野球の話題になる。だけど、私は野球のことはまったく「分からない」(汗)。最初、休憩時間は苦痛で仕方なかった。でも話題に入りたくて、野球のことを調べ始めると、いつの間にか野球が好きになっていった。なぜ? それは野球のことが少し「分かって」きたから。もちろん話題にも入れる!
「祈りなさい」とは、継続的にそうしなさいという意味だろうから、「毎日、祈りなさい」と言い換えると、より具体的になる。もし自分をいじめる大嫌いな○○さんのことを毎日、祈っていたら、「何であの人は私に嫌なことをするの?」という考えが起こってくるかもしれない。嫌なことも思い出すかもしれない。でも、もし祈りの中でその人のことが少しでも理解できたら、少しは赦(ゆる)せるかもしれない。「あぁ、この人もいろんな事情があるのだね」と。
「自分の敵を愛しなさい」なんて、神様は無責任なことを言うと思ったけど、祈りの中で相手のことを少しでも「分かって」いけば、それが敵さえも愛する一歩となるはず。
<聖書のみことば>
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43〜44)
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箕輪勇気(みのわ・ゆうき)
1981年名古屋市生まれ。2002年受洗。05年から4年間、神学校(信徒向けコース)で学び、現在は社会人として働きながら妻と共に一般信徒として教会に仕える。2児の父。