パウロの言葉に「私は福音を恥とは思いません」(ローマ1:16)がある。パウロはなぜこんな言葉を書いたのだろう? 本当は恥ずかしかったから? いや、あのパウロの性格からしてそれはないだろう。
ではなぜ? きっと周りに福音を恥だと思っている人たちがいたのだろう。
「福音」といっても、普通に「神様はいるよ。その神様はあなたを愛し、その愛を示すためにどれだけのことをしたか、お話しましょう」と、その程度に伝えただけなら、恥と思われなかったかもしれない。当時のギリシャ世界は多くの神々を祭っていたし、人々にはあつい信仰心があったのだろう。その証拠に「知られない神に」と刻まれた祭壇までも作るくらいだ。
しかし当時は、物質と霊を二元論的に捉える考え方が根強くあった。簡単に説明すると、体など目に見える物質は悪いもので、霊など目に見えないものは良いもの、という考え方だ。
この物質と霊を二元論的に見る考え方があったために、当時の常識からすれば「福音」は愚かなものであり、それを信じるのは恥ずかしいことだと思われたのだろう。なぜなら、パウロが一番伝えたかったものは、キリストの「死と復活」だったのだから(1コリント15:3~5参照)。
ギリシャ人はパウロの話を聞いて、「せっかく死んで霊的な状態になったのに、また汚い体を持つ状態になったのか」と、パウロの話をばかにして聞いていたのだろう。
しかしここでパウロが「福音を恥」と思っていたのなら、今のキリスト教はなかったかもしれない。
<聖書のみことば>
「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った」(使徒17:32〜33)
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箕輪勇気(みのわ・ゆうき)
1981年名古屋市生まれ。2002年受洗。05年から4年間、神学校(信徒向けコース)で学び、現在は社会人として働きながら妻と共に一般信徒として教会に仕える。2児の父。