目標にしていた5大陸走破を達成したとは言え、まだ走っていない所はいくらでもある。アフリカで出会ったカップルで世界一周中の日本人女性サイクリストから、タイがよいと聞いたので、次女が1歳になった1997年の4月、タイからシンガポールへ走ることにした。
4月を選んだのは、子どもが2人になったり仕事の責任も大きくなったりして、ゴールデンウィークにからめて休もうと思ったからだが、この時期は一年で一番暑い。バンコクを出る時、警官に道を聞いたのに言葉が通じないからか、方向を間違えて3時間も走ってから気が付いた。太陽が真上にあるので、方向感覚も効かない。気温は体温より高く、道を間違えて戻らないといけないショックも合わさって、その夜は、おなかが減っているのに食事を目の前にしても食べる気力が出ないほど疲れ切ってしまった。
翌朝も暑さと疲労でこのままではどうなってしまうのかと思ったが、時々ガソリンスタンドで服のまま頭から水浴びをしながら走ると、風を受けて少し涼しい。そんな風に走りながらマレー半島を南下するにつれ、暑さは和らいでいった。タイランド湾の島へも渡ってみてのんびりもしてみる。
マレーシアに入った町で店の女の子の店員に話しかけると、側にいたおばあさんがシッシッと舌をならしてきた。側にいた猫にしたのだと思ったのだが、店員に話しかけるとまた舌をならしてきた。初めてのイスラムの国の印象として、女の子に声をかけてはいけないのかと思った。
インドネシアのスマトラ島に渡った日曜日の朝、綺麗な服を着て聖書のような物を持って歩く人たちがいた。知らなかったのだが、そこはイスラムの国の中でその地域だけキリスト教徒の住む地域であった。教会に行くと、言葉は全く分からないが、讃美歌のメロディーは同じ。思ってもいなかったところで礼拝に出られたのは嬉しい。
世界中あちこち走って、日本人はどこへ行っても歓迎されると感じるのだが、ある日、夕食をとろうと食堂に入ると、主人は明らかに僕だけを無視して注文を聞こうとしない。頭に来て怒って店を出たのだが、アジアには、戦争の記憶があって日本人が嫌いだという人が少なからずいるのだろうと思った。
一度失った信頼を取り戻すのは大変なのだ。70年かけて戦争をしないということで世界から尊敬される国になったのに、再び戦争に関われば、せっかく受けた信頼を失うことになる。長い時間をかけて受けた信頼も、失うのは一瞬で出来る。それは非常にもったいないことだと思う。
武力によれば一時的に問題は解決したように見えるだろう。が、人の心に残った憎しみはやがて形になって自分に戻ってくる。戦後日本がしてきた武力によらない解決の道を歩み続けるべきだと思う。
さて、スマトラでは野生の象に出くわしたりしたものの、ジャングルの地だと思っていたが木々は切られ、荒涼とした土地ばかりなのには気が滅入った。
そんなわけで、マラッカ海峡を渡るとなんとなくホッとした。スマトラから行くと、高層ビルの林立するシンガポールは全然違う世界に見える。
翌年は、10月から11月にかけて香港からホーチミンへ走った。
中国のこの辺りは、山水画のような山々が連なる場所だ。桂林は有名だが、何でもない田舎もなかなかよい。素朴な人たちと風景。ただここではなかなか人の写真を撮るのが難しい。風景の中に人を見つけてカメラを取り出して構えると、いつの間にかいなくなっている。おかしいなと思ってカメラをしまうと、姿が見えている。どうやら遠くからでもこちらを見ていて、よほど写真に写るのが嫌なのだろう。魂を取られるとか思っているのだろうか。
宿も質素。寒い季節、水を入れたたらいにやかんの熱湯を入れて短時間で身体を洗う。ただ、さすが食の中国。食事だけはどこでも満足できる。自転車乗りにはありがたい。そんな感じの場所だが、来る外国人などほとんどいないだろう。そういう所を見て回れるのも自転車の良い所だ。
それに比べてベトナムでは、道案内したと言って民間人からも、検問所では何かと理由を付けてはお金を要求されたり、寺に泊ろうとしたら夜中に警官が来て強制的にホテルへ連れて行かれたりした。当時、外国人はホテルに泊まらなければいけないという法律があり、警官にはマージンが入るらしい。
ベトナムは南北に細長い国だ。中国ではルートの選択肢が色々あったが、南北に走る道は基本的に国道1号線一本しかない。それにしては車が少なく、道路で脱穀の終わったコメを干しているのによく出会った。
毎晩の宿は中国と同じく、田舎では、まあベッドで寝られればいいという程度の物。それでもあればいい。ある日、夜になって着いた町にホテルがない。どうしようと思っていると、中学生くらいの女の子が家に連れていってくれた。でも女の子が知らない外国人を家に連れ込んだりしていいの? 変な法律もあるし、と思っていると父親が帰ってきた。
息子が旅行社にいるので、時々外国人が来るらしい。翌日は台風が来て身動きできず、2日間お世話になった。夜中床上浸水となり、脱いだ靴がさまよってしまった。その中学生だった子は日本人の妻となり再会し、フェイスブックでご主人と繋がったりして面白い。
旅の途中では、妻から3人目の子がおなかにいると聞いて喜んだのも思い出にある。
それから時は流れ、その妻が亡くなるという悲しさの中、一昨年自転車を再開してみようと思って選んだのがバンコクとホーチミンの間だった。土地が真っ平らで楽なので、復帰の場所として走りやすそうというのが理由だった。他の途上国ではあまり見られないが、若い女性も流暢に英語を話すフレンドリーな人たちが多く、内戦でボロボロになったところから復興している途上の国で、希望を感じさせてくれた。
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