インドシナ半島の次はインドと思ったのだが、走った人に言わせると道路に人が多すぎて楽しくない。楽しく走れるところの方がいいでしょ?ということだったので、少しずらしてバングラディッシュからネパールを走ることにした。
時期は2000年12月の終わり。どこかで世紀をまたぐことになる。ダッカの空港には夜中の12時に着いたが、薄暗く小さな建物での入国審査では審査官がいくらかくれと言ってきた。拒否し続けて通してもらったが、いったいここが一国の玄関である空港なのか。ちょうどラマダンで空港の外には出迎えの人が押し寄せているようだが、明かりが無くて不気味だ。こんな国にこんな時間に着いたので、真っ暗な中ホテルに着くまで不安だった。
この国は完全にまっ平らな土地で、自転車で走るのは楽だ。見所はほとんどないのだが、この国には強烈な印象があった。町で店に寄ると、出てくる時には黒山の人だかりができているのである。誰かが外人が来たぞと言うと、町中の人が見に来るのか。食堂に入ると中に入れない人が窓からも覗き込んでいるといった感じだ。
インドへは幹線道路を走っていれば行けると漠然と思っていたが、国境に着いてみると閉鎖されていて、開いている検問所はかなり離れた所にあり、バスに乗って行くように言われた。親切な人が案内して泊めてもくれた。彼の町に着いて、経営している貿易会社の事務所を見せてもらったが、事務所に電話がない。何かタイムスリップした感がある。夜、街の人たちは寒い寒いと言ってコートを着て歩いているのだが、僕はTシャツでなんだかおかしい。
彼は熱心なムスリムで夜中に起きて祈っていた。翌朝もバスに乗せてもらって検問所に着いたが、審査官から書類に不備があるからダッカに行って取って来いと言われた。そんなことできないので何とかならないかと言うと、案の定賄賂を要求してきた。思った以上に物価が安く、空港で換えた50ドルの半分も使っていないし、この国のお金などこのまま国境を越えたら多分紙くずになるだけなので払ってもいいのだが、一食数十円、一泊風呂付で最安12円!という宿まである物価の国で、3000円もの賄賂は阿漕(あこぎ)なのではないか。本当に机の下で袖に隠してお金を渡し、無事に手続きは終わり。
国境で分断された鉄道の線路敷きを歩きながらも何度もチェックがあり、畑のあぜ道を歩き、国境の有刺鉄線のフェンスのドアをくぐり、やっとインドに着いてもいくつかの建物を渡り歩いて審査を受けた。既に日は落ちかけていた。隣国同士仲良くないというのは困ったものだ。
ここから、紅茶で有名なダージリンに向かって、世界遺産になっている紅茶を運ぶ鉄道脇の道を登っていく。ダージリンからはヒマラヤ山脈の標高世界第3位カンチェンジュンガの朝日を浴びた赤い山肌が綺麗だった。
ここで、昔独立国で現在はインドの一部となっているシッキムに入る許可証を申請するのだが、クリスマスの日は役所が休み。キリスト教国でもないのになぜ? シッキムは近くに見えている隣の町まで行くのに千メートル下ってまた千メートル上るような所だ。かつての王国の住民はインドの人とは顔つきも全然違う。
そこからネパールへ入る。ヒマラヤの国も南側は低地の平地である。ここで21世紀を迎えたのだが、大晦日の夜の食事も小さな村の食堂では選べるメニューもない。暦が違うので年が明けても何も起こらない。とても拍子抜けの21世紀の幕開けだった。
目的地のポカラは新婚旅行で訪れた場所だ。当時は1日かけて歩いて登り、テントで泊まったヒマラヤ山脈の景色が素晴らしいサランコッタの丘は、10年後、そこまで道路が通じてホテルが林立していた。何という変わりようだ。
2005年3月にはその東側のミャンマーに行った。この時は珍しく一緒に走りたいと言う人がいて連れて行ったのだが、彼の自転車のタイヤが走り始めてすぐにバースト。同じサイズのタイヤはなく、応急処置してだましだまし走る。中央部のマンダレーから当時の首都ヤンゴンまで走る3日目に彼は暑さにやられ、タイヤも見つからないため、あえなくリタイヤしてしまった。
この国の田舎の食堂では、古い油で揚げたパンやちまきのような物を食べていたが、絞ると油が出てくる。案の定、ある日の夕方お腹が痛くなって、村についてトイレを貸してもらったがそこから動けなくなった。ひっくり返った僕を村中の人が見に来た感じ。泊まる所はなく、皆が学校に連れて行ってくれて泊まることになった。ところが夜中に警官が来て、外国人はホテルに泊まらないといけないと言う。そんなこと言われても無理なのは分かるだろう? 警官はパスポートのコピーを取ると言って持って行った。体の調子も戻り無事にヤンゴンで連れと合流できた。
2014年11月から12月にかけては、ブータンに行った。この国は勝手に旅行することはできない。当地の旅行会社に旅程を組んでもらい、ガイドと運転手と車を手配して代金を払うと入国許可が下りる。自転車が好きで日本語を話せるガイドさんが付いてくれて、また僕がクリスチャンであるので仏教国でお寺の見所が多いが興味はないだろうと、あまり旅程に入れないなど良く考えてくださり、本来は車で移動することになっているが、途中自転車で移動してもよいとして、あちこち自転車で走れる旅程を組んでくださった。
ヒマラヤ山脈を越えて越冬しに来るオグロヅルという力強い鶴を見に行った帰り、峠から自転車で下ったが、日本のようないい道ではなくビュンビュンとは走れない。この時期に行ったのは、乾季で晴れる日が多いからなのだが、曇りの日が多く、1晩をせっかくヒマラヤの見える山小屋ですごしたのに、全く何も見えなかったのは残念だった。
富士山より高い峠には車ではなく自転車で上ったが、その日は晴れ渡り、チョモ・ラーリ(標高約7300メートル)という山が良く見えた。
この国は仏教国で2008年まで信仰の自由がなかった。日曜日の午前中はティンプーの町で自由時間があったが、ガイドさんに聞いても教会どころかクリスチャンがいるという話すら聞いたことがないという。
仏教徒のガイドさんに聞くと、この国では仏教は生活の中に密着して皆信仰深い。殺生を禁じる教えが大きいので歴史的に殆ど戦争をせずにも来たということだ。それに対して中途半端に許しを信じ、人を殺しても許されるのだと解釈してあちらこちらで戦争するキリスト教国と比べてみると、戒律的かもしれないが殺生を禁じている仏教の方がずっと平和であろう。
ブータンは「幸せの国」と言われる。世界で一番幸せを感じる人の割合が多いと解釈されることがあるが、国王が物質的な豊かさでなく心の豊かさを目指そうと提唱しているというものだ。物質的な豊かさは日本と比べ物にならず、かえって貧しい方が、心が豊かだとTVなどでは短絡的にそう紹介されることもあるが、話を聞くとやはりそんなことはない。皆が貧しいときは幸せかどうか感じることもなかったが、誰かが豊かになると人と比べてしまう、物があってもさらにあれもこれも欲しいということになるとガイドさんは言っていた。
実際は幸せな人ばかりではないこの国ではあるが、経済的な豊かさよりも心を大事にしようという姿勢はとても見習うべきものがあると思う。幸せとは何か。それは幸せという何かがあるかどうかではなく、そうと感じられる心があるかどうかなのだと思う。ヘブル人への手紙13:5に「いま持っているもので満足しなさい」とあるが、幸せかどうかは相対的なものであって、どのレベルでも満足できるはずだ。
お寺ではマニ車を一生懸命回す人たちを見た。何を祈るのか聞いたら、自らの来世の幸福を願い一生懸命に祈っているのだそうだ。
わたしたちは裸で生まれてきた(ヨブ記1:21)のだから、持っているもので満足できるはずだし、クリスチャンは信じた瞬間に永遠の命までも保障されている。それは究極的にすばらしいことではないか?「幸せの国」で改めてそんなことを思った。
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