5大陸目は1994年の暮れから、アフリカを走ることにした。アフリカと一口に言っても広い。大陸を周るには1年くらいかかる。休める期間で行けるケニアから南アフリカへ走ることにしたが、エイズをはじめ病気のデパートのようなところだし治安も悪いしと、行く前には多くの人から散々脅された。
ケニアの首都ナイロビでは、妻の教会の神戸俊平さんという獣医の方のところにお世話になった。クリスマスの礼拝を終えて、出発。都会を離れて草原に出ると、マサイ族の若者に出会ったり、遠くにはキリンが見えたり。しかし、ちゃんと動物が見たければ、国立公園に車をチャーターするなりして行かなければいけない。今は、ほとんどの野生動物が公園内で保護されて生きているに過ぎない。
キリマンジャロの麓の町でJICAの人たちに会い、一緒に何年か前の紅白のビデオを見て95年を迎えた。この辺りでは、幹線道路沿いには小さな町でも宿があり、探すに困ることはなかったが、屋根の下で寝られるという程度のもの。特にマラリアは怖いので、網戸を調べ、殺虫剤をまき、蚊を全て殺して蚊取り線香を焚いた。
日本人の口に美味しいと思える食事には、大きな町以外では出会わない。ただ、米はどこでも手に入るので、夜は米を朝の分も合わせて炊いておく。おかずになるものが手に入らないので、神戸先生から頂いたふりかけが重宝した。ミネラルウォータなども売っていないので、寝る前に水を沸かしておく。煮沸しても泥水の濁りは取れないが、朝冷えたところで上澄みをボトルに入れる。
そんな田舎の店でも、コカコーラは山積みになっているのには驚いた。疲れた身に冷たいコーラは嬉しいが、電線が引いてある店を選んでも、電気代が払えないので、冷蔵庫はただの入れ物に過ぎないことが多い。そんなわけで、ふりかけご飯にぬるいコーラというパターンが多かった。
この東アフリカでは、他の場所で聞かれたことがない質問だが、「スポンサーがいるのか」とよく聞かれた。おそらく自分のお金を使って趣味で旅をするなど、想像がつかないのだろう。自分の生まれた地域から出ることなく一生を終える人も多いだろう。
タンザニアでは、沖合に浮かぶザンジバルという島がきれいだった。その南、マラウイでは、大地溝帯に水が溜まって出来たマラウイ湖が美しい。湖岸のキャンプ場で風呂はあるかと聞いたら、ここに大きいのがあると、湖を指差された(笑)。
この国はアフリカ最貧国と言われ、当時はテレビ放送がなかった。この国で楽しかったのは、村を通過するたびに、子どもたちが遠くからでも僕を見つけて走って来て、「外人だ」「白人だ」(僕としては真っ黒に日焼けしているつもりなのだが)と叫びながら、一緒になって走ったことだ。コーラでも買おうと店に寄ると、大人も沢山寄ってくる。
ある日の夕方、宿がなく宣教団体の建物に泊めてもらうことになった。クリスチャンだと言うと、アフリカのご馳走をするよと言われ喜んだのだが、長いこと待って出てきたものは山盛りのご飯だけ。がっかりしたのだが、ここの主食はキャッサバの粉を捏ねて焼いたウガリという味気のないもので、僕は沢山食べると気持ち悪くなった。そういえば僕が白米を食べているのに、目の前の人はそれを食べていた。考えてみれば、昔は日本でも白米はご馳走だった。確かにご馳走してくれたのに気がつかず、悪いことをした。
旅行記の本筋とずれるが、湖畔に泊まっていた1月17日の昼に旅行者から、日本で大きな地震があったようだと聞いた。が、誰もどこだか分からない。新聞社に電話をかけて阪神大震災を知った。しかし新聞を見ても載っていないし、テレビ放送もないのでもどかしい。詳しい情報が分かったのは、南アフリカに入ってからだった。僕の本職は建築士だが、日本の建物は地震があっても大丈夫だと言われていたのでショックだった。その後建築構造設計に関わるようになったが、この時の思いは忘れられない。
ジンバブエでは背の低い潅木のみの荒地が続いた先に、世界3大瀑布のひとつビクトリアの滝にたどり着いた。暑く殺伐とした土地を何日も走った後で目にする滝では、涙が出るような感動がある。多くの観光客はここの空港まで飛んで来て、滝を見た後また飛んで帰る。同じ景色を見ても、苦しんだ後に見るのは何倍も感動がある。自分はすごくいいものを受けている。そんな風に感じられるのは、自転車旅行のいいところだろう。
その後スワジランドを通過してみるが、登り坂が延々と続くかなりきついところ。そのわりにビクトリアの滝の様な場所はなく、いつもいい思いをするとは限らない。ただ、目的地に着くと、それまでの苦労はみんな良かったと思えるのは同じだ。
最後の国、南アフリカはヨーロッパのようだ。この国での面白い経験は、ダチョウに乗った事だ。乗るコツを掴んだと思ったところで振り落とされてしまったが・・・。そのダチョウのステーキはおいしかった。
最終目的地であるケープタウンの夜景の美しさは格別だった。ただ、アパルトヘイトが終わったとは言え、都市の郊外には黒人の住むスラムが広がり、列車は空いている白人の車両と込んでいる黒人の車両があるという具合に、格差が目に入った。
帰りにもう一度ナイロビに戻り、マサイ族の村にある神戸先生の診療所を見学させて頂いた。この地に住む人たちに尽くす先生に、皆が敬意を持っているのが分かる。
帰国してみると、1歳の長女は少し話が出来るようになっていた。
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