3大陸目は南米へ行った。まずマゼラン海峡の南、世界でもっとも南にある町、ウシュアイアに降り立ったのは91年1月。そこから行けるだけ北へ行こうと思った。ただこの旅では珍しく単独ではなく、途中から一緒に走るという人がいたので、合流地点のブエノスアイレスまで全行程を走るのは無理で、途中でバスなどを使わなくてはならない。
しかし北上して2日目、平原に出ると強風に吹かれ始めた。大陸南部パタゴニアは非常に強い偏西風帯にあり、常に台風のような西風が吹いている。一日中強風と格闘して夕方にはくたくたになる。マゼラン海峡を越えてチリのパイネ国立公園に入ったところで、風は一段と強くなった。乗って走るどころか、風は一緒に小石まで飛んで来るほどになり、押しても身動き出来なくなった。通りかかったバスに助けられ、キャンプ場に着いたものの、そこからまた動けない。雲一つない青空なのに恨めしい。結局そのまま出発、国境の検問所では話が弾み、検問所内で泊めてもらうというなかなか味わえない経験をして、アルゼンチン側へ。橋のない川を越えたりして見に行ったのはカラファテという氷河で、温暖化で世界の氷河が縮小している中で成長しているという。氷河の先端は50メートルほどの高さがあり、目の前で見るとかなりの迫力だし、光を浴びるとブルーに見えて綺麗でもある。
バスでチリ側へ戻り、フィヨルドの海をフェリーで北上することにした。
下船したプエルトモンから、出会ったニュージーランドのサイクリストと同行して、南米のスイスと言われるバリロチェを目指す。途中道路の真ん中に開いていた穴に落ちてリムを破損した。折れたリムのまま峠越えをして町でリムを入手する事が出来た。ところでこのニュージーランド人はパラグライダーを積んで走っている。そんな重いものを持って走るなんて物好きなと思ったのだが、湖を望む丘の上からのフライトを見て何てすごいんだろうと思った。今では時々空中散歩を楽しんでいるが、ここで彼に生涯初めてのフライトをさせてもらったのであった。
その後バスでブエノスアイレスへ出て一緒に走る人に会ったのだが、途中で飲んだ水が悪かったか、着いた夜にそのまま放っておかれたら死ぬのではないかというほどお腹が酷い激痛に襲われ、5日間入院してしまった。バスで再びチリに出て走り出したものの、すっかり身体が弱ってしまったようで、何を食べてもだめだ。おまけに同行した彼のお腹も同じようにおかしくなり、3日走ってはバスで次の大きな町へ出て病院通いしながら1週間休むといった具合でチリを北上し、あまり走れないままボリビアの首都ラパスへ出た所で完全ギブアップという挫折を味わう旅になってしまった。
行かれなかった、そこから先のチチカカ湖からペルーのマチュピチュへはいつか再びと思っていたが、やっとその19年後の2010年に逆にたどるコースを走ることにした。
リマの空港からマチュピチュへバスで行く途中、ナスカに寄った。ここの地上絵はずっと見てみたかったが、その価値は大有りだった。
マチュピチュも同じく期待を裏切らない場所だった。マチュピチュまでは道路が通じていないので、一番近い町から自転車で走り出す。標高2800メートルの町から最初の峠はいきなり富士山より高い。南米に最初に行った時は、ペルーはゲリラが出没して町の治安も酷く、峠を越えた所のクスコの町に行けば必ず泥棒に遭うと言われたが、それが至る所に警官が立つ安全な町になっていた。
標高3300メートルのクスコからは4338メートルの峠に向けて徐々に高度を上げて行く。途中ホテルのない町では泊めてくれる人がいたり、出かけてしまって留守の宿の主人を探し回ってくれた女の子がいたりと親切な人たちに出会うことが出来た。
峠を越えるとなだらかな高原地帯となり、風景からは富士山より高いとは感じられない。空気が薄いので空の蒼さは濃く、身体は感覚としては平地の3分の2くらいしか動けない。 高山病の症状を緩和させると言われるコカ茶というのをよく飲んだ。後日談だがこのコカ茶に使うコカの葉はコカインの原料にもなるため、帰国時成田空港で麻薬捜査犬に身体に染み付いた匂いを嗅がれ、余計な疑いをかけられてしまった。
チチカカ湖に着くと、その蒼さは空の色を映してか際立っていた。普段は日が暮れるころまで走るが、身体が追いつかないので早めに宿を取って、夕方は宿の側を散歩したりしてのんびりする。食事は、湖で取れた魚がなかなか美味しい。
チチカカ湖とラパスの間は前回バスで通ったが、自転車で走ると結構な山道だったり綺麗な町があったり。改めて自転車は色んなものを感じることが出来るなと思う。町から離れた宿に泊まった夜は、天の川や南半球であることを感じさせてくれる南十字など、満天に散りばめられた星空がすばらしく綺麗だった。
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