「心に太陽を持て」
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
いつも、心に太陽を持て。くちびるに歌を持て、
自分のくらしに、
苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。」<ツェーザル・フライシュレン作(山本有三訳)、『心に太陽を持て』新潮文庫から抜粋>
「君、なんでそんなに明るく楽しそうなんだ?」。学生の頃、バイト先の同僚で、いつも歌をうたいながら仕事をしている男がいた。私はその頃、すべてが思い通りに行かず、将来に失望して落ち込んでいた。
「だって、この職場の機械の音がうるさいし、とても蒸し暑くて、歌でもうたわなければ気がめいってしまうからさ」。そう言って彼は、ドイツ語でベートーヴェンの交響曲第9番の「歓喜の歌」を繰り返しうたっていた。それを聞きながら私も気持ち良く仕事ができた。その後も落ち込んだときは、彼を思い出し、「歓喜の歌」を口ずさんで自分を励ました。
数年後のある日曜の朝、渋谷の街角でばったり彼と出会った。「なつかしいねぇ。今どうしてるの?」と聞くと、「いやあ、彼女には振られるし、会社は首になるし、ろくなことないよ。俺、もうだめだよ」とかなりしょげていた。
「だって、あの頃はバイト先で歌をうたってとても元気だったじゃないか。もうあの歌はうたわないの?」。「今、俺の心は真っ暗だ。とても歌なんかうたう気になれないよ」。「そうか、これから行く所があるんだけど、用事が済んだら一緒に昼飯でもしないか?」
彼は素直についてきた。行った先は私の教会だった。「なんだ、キリストの教会じゃないか、俺にはちょっと場違いだから帰るよ」としり込みしている彼を、「まあ、いいじゃないか」と半ば強引に連れ込んだ。
そこは大勢の外国人が礼拝している教会だった。私はクワイア(聖歌隊)のメンバーだったので、彼にガウンを着せて講壇の上のクワイアの私の隣に座らせた。生まれて初めて教会の門をくぐり、英語の讃美歌を持たされた彼は、大勢の外人教会員と向き合って目を白黒させていた。
礼拝が始まり、クワイアが立ち上がって、その日の讃美歌を歌い始めた。なんと、それはベートーヴェンの「歓喜の歌」であった。彼は思わず声を張り上げてうたっていた。礼拝が終わるとクワイアの全員が彼に握手を求めてきた。
「いやあ、あの時は講壇の上で一体どうなることかと、緊張のあまり冷や汗が出たよ。でも、勇気を出して久しぶりに大声でうたったら、心の中のもやもやが吹っ飛んでしまった。何か、明るい希望が出てきたよ」。一緒に昼食をした後、彼は私に感謝して帰っていった。
ツェーザル・フライシュレンはドイツの詩人である。第二次世界大戦に向かいつつあった暗い時代に、彼の作ったこの詩は、ドイツの多くの家庭の壁に聖書の句などと共にかけられていた。同じ時期に、日本の青少年のために山本有三が編集した「日本少国民文庫」の第12巻にこの詩の訳が掲載され、大ヒットした。
私は、暗い気分に落ち込んだときは、街を歩きながら口笛で賛美することにしている。そうすると心が明るくなってくる。今の時代でも、一番必要なのは「心に太陽を持つ」ことではないだろうか。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)
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