正教会のクリスマスは12月25日ではなく1月7日。横浜ハリストス正教会でも7日、降誕祭聖体礼儀が行われた。通常の日曜日は30人ほどの信徒が集まるが、この日はクリスマスとあって、見学者も含め、およそ2倍近くの人が聖堂を満たした。
横浜ハリストス正教会は、JR横浜駅の北に位置する閑静な住宅街の一角にある。特徴的な玉ねぎ型の屋根に、八端十字架(横木の上下に罪状書きと足台がある)が掲げられている。午前10時、高らかに鳴る鐘の音とともに、多くの参祷者がクリスマスツリーの飾られた聖堂へと急いだ。
現在、世界各国で用いられているグレゴリオ暦は、日本でも明治に入ってから採用されたが、16世紀以前はユリウス暦が欧州を中心に用いられていた。ロシア正教会ではユリウス暦を今も使っているため、ユリウス暦の12月25日に当たる1月7日がクリスマスになる。そのため、世間一般のクリスマスと正月三が日が過ぎた後、静かで厳かなクリスマスが正教会で祝われることになる。
聖堂に入ると、美しい混声合唱とお香の煙、ろうそくの炎と、窓から降り注ぐ日の光に照らされたイコン(聖画)から、正教会の特徴を五感で感じ取ることができる。
信者たちは、まず水野宏神父のところに行く。「痛悔機密」を受けるためだ。これはカトリックの「ゆるしの秘跡」に当たるが、「告解室」は存在せず、会堂の隅で小声で行う。告白と祈りが終わると、十字架と聖書、神父の手の甲に口づけをして「痛悔機密」は終了する。
正教会では、聖体礼儀が始まると、聖歌隊による賛美が式の進行に重要な要素となる。賛美に合わせて信者は十字を描いたり、床にひれ伏して祈ったりする。
正教の教えは、1861年、ロシア人司祭ニコライによって北海道函館に初めて伝えられた。その後、東京・神田にニコライ堂(東京復活大聖堂教会)が完成し、ここを拠点にして日本全土に広がった。明治期には3万人の信徒がいたとされるが、現在は全国56教会、信徒数は1万人を切るという。
横浜に正教会が伝えられたのは1878年。日露戦争(1904年)が勃発した時には、正教会は敵国の宗教として大きな弾圧を受けた。やがてロシア革命(17年)で母国を追われた多くのロシア人が日本に亡命し、教会は彼らにとって心の支えとなった。当時、太田町にあった会堂が、23年の関東大震災により全壊。しかし、明治期から大正期にかけて、ロシア人と日本人信徒が互いの言葉で聖歌を歌うなど、日本の正教会が最も繁栄した時期でもあった。
1935年には地蔵坂上に聖堂が建てられたが、第二次世界大戦の勃発とともに、ほとんどの教会活動ができなくなった。日本人が疎開する中、一時はロシア人信徒によって教会が守られていた時期もあった。45年5月の大空襲の際には横浜の街が壊滅的な被害を受けたものの、郊外にあった聖堂は難を逃れた。終戦後はロシア人信徒も多く集まり、近隣の住民から「山手の小さなロシア教会」と呼ばれ、親しまれた。この聖堂は老朽化が進んだため、80年に取り壊され、現在の神奈川区松ヶ丘にある聖堂へと移転された。
水野神父はこの日、このようなクリスマスメッセージを語った。
「降誕祭前夜の祈りの中で、聖歌の歌詞に『異邦人はこれを知りて従えり』とある。異邦人とは、法律上の国籍が違うということではない。真の信仰を持っているか否か。当時、アブラハムの血を受け継ぐユダヤ民族以外は異邦人とされた。自分たちこそ『イスラエル』(神の民)として、それ以外は救われるないと。しかし、神様はユダヤ民族とそれ以外の民族を別々に造ったのではない。私たちをすべて等しく造られた。クリストス(キリスト)を信じる民はすべてイスラエルであり、救いにあずかれる。東方の博士たちは、現在のペルシャ、おそらくイラン周辺から旅をしてきたと推測される。彼らはユダヤ民族ではなく、異邦人ということになる。しかし、クリストスがお生まれになった夜、ユダヤ民族は『救世主がお生まれになる』ということを知っていながら、ユダヤ王の座を脅かされることを恐れて、これを無きものにしようとした。一方、異邦人である東方の博士たちは、真の信仰をもってクリストスを拝した。どちらがアブラハムの信仰を受け継ぐものであるか。クリストスは物語上の人物ではない。ずっと旧約時代から預言されていた救世主。降誕というのは、その救世主がこの世にお生まれになって、今も目には見えないが、私たちと共にいるということ。それを祝うものだ」
最後に水野神父が「メリークリスマス!」と呼び掛けて式は終了した。
同教会では、他のキリスト教会と同じく信徒の高齢化が進み、現在は日曜学校も休止中だ。年間を通して、バザーやロシア料理教室、聖パン作り教室などを開いて地域とのつながりを持っている他、水野神父がSNSなどを通して積極的に情報を発信し、開かれた教会を目指している。