去る7月24日は、奴隷商人から賛美歌作家、説教者に変えられた人、ジョン・ニュートン(1725〜1807)の誕生日だった。ニュートンは、多くの人々に愛されている賛美歌「アメイジング・グレイス」の作者として広く知られている。
「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我(われ)に」(新聖歌233)。教会に行ったことがない人も、どこかで耳にしたことがあるであろうこの歌詞を、ニュートンは1779年に発表した(作詞したのは1772年)。「アメイジング・グレイス」は、今日も教団教派を超えて歌い継がれている定番の賛美歌となっている。この歌は深く自伝的な響きを持ち、ニュートン自身の劇的な回心の経験がその根底に流れている。
ニュートンは1725年、貿易船の船長の息子としてロンドンで生まれた。母は熱心なクリスチャンだったが、ニュートンが7歳になる前に病死する。ニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるようになった。その頃のニュートンの評判は、反抗的で、罰当たり、不親切というものだった。
しかし、ニュートンが22歳の時に転機が訪れた。1748年5月10日、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートンは神の慈悲を求めて必死に祈った。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートンの回心の「始まり」となった。1754〜55年の間に、ニュートンは奴隷貿易をやめ、その代わりに神学を学び始める。そして1764年、ついに英国国教会の牧師になった。
ニュートンは、黒人たちをまるで家畜のように扱う奴隷貿易を直ちにやめるわけではないが、最終的には過去の生き方と決別し、その罪を悔い改め、奴隷貿易に反対した政治家、ウィリアム・ウィルバーフォースと共に奴隷貿易廃止運動を活発に推進した。ニュートンは奴隷がひどい扱いを受けていることを正直に語り、1807年3月、英国はついに奴隷貿易を禁止する。そして同年12月、82歳で地上での生涯を終える。
ニュートンは多くの作品を残した賛美歌作家であり、詩人ウィリアム・クーパーとの共作『オウルニィの讃美歌集』(1779年)は、英国国教会で影響力のある歌集となった。晩年、失明に苦しむが、「アメイジング・グレイス」で述べられているように、彼の心の目はそれまで以上にはっきりと見えるようになったのである。
ニュートンが残した言葉の中から、洞察に満ちた以下の7つの言葉を紹介する。
1. 私は、自分がなるべき状態にはなく、自分がなりたい状態でもなく、天国でそうなるようにと望んでいる状態でもない。しかしそれでもなお、私はかつての自分ではない。そして神の恵みによって、私は今の自分であるのだ。
2. 私たちの前にある栄光に満ちた希望を、喜びを持って思いはせることは、地上での短い生涯を改善するよう、私たちを支え、奮い立たせる。そして主の恵みを賛美し、栄光が主に帰されるために、この邪悪な世にあって光として輝く聖なる志で私たちを満たす。主は、私たちを暗闇からご自身の栄光に満ちた光の中へと召し出してくださったのである。
3. 人が裁判で勝ち、敵を黙らせたとしても、それと同時に、主がお喜びになり、主の臨在が約束されている謙遜で優しい霊の炎を失うなら、それは何の益となろうか。
4. 真に謙遜な者は、容易に怒ったり、他人をけなしたり、批判したりすることはない。彼は罪人である仲間の弱さに同情し、優しい態度を取るだろう。彼は違いがあるなら、それは恵みのみによることを知っている。彼は自分の心にはあらゆる悪の種があると分かっている。そしてすべての試練と苦悩の下で、彼は主の御手に目を向け、自分の口をちりに付ける。彼は、自分の不義によって当然受ける苦しみよりも、はるかに少ない苦しみしか与えられていないことに感謝する。
5. 真夏の太陽は輝くが、やがて薄暗い日が来る。野原は、緑豊かに見えるよう無駄な努力をする。しかし私が主にあって幸福を感じるとき、12月は5月と同じぐらいに喜びに満ちている。
6. 心配のすべてが、私たちのために血を流してくださったお方の御手の中にあると知ることは、言葉に表せないほどに素晴らしい。
7. 多くの危険、労苦、わなを通って、私はすでにここまで来た。ここまで私を安全に導いてくださったのは恵みです。そしてこの恵みは、私を天のわが家まで導いてくださるでしょう。