第二次世界大戦下、日本軍の捕虜となった英米など連合軍の元兵士と日本人の間に和解をもたらす働きをしている支援団体「アガペワールド」。その代表を務める英国在住のホームズ恵子さんと元捕虜の家族らが来日し、全国の教会で「和解の礼拝」を行っている。
恵子さんは戦後、三重県熊野市紀和町に生まれた。高校卒業後、上京してベビーシッターのアルバイト先で英国人ポール・ホームズさんと知り合い、結婚。ポールさんに導かれてクリスチャンになった。1979年、子ども2人を連れて英国に移り住んだが、5年後、飛行機事故でポールさんが亡くなり、その後も異国の地で子どもたちを育ててきた。
恵子さんは故郷の紀和町に帰省した時、大きな十字架の立つ墓があるのに気が付いた。日本人が建てた、捕虜となった元英国軍人の墓だった。それ以来、「紀州鉱山で亡くなった16人の英兵の家族や帰還した284人にこの墓のことを知らせたい」と強く願うようになり、やがてその一人一人と出会っていった。
元捕虜らは、戦後数十年以上たっても、その時になめたさまざまな辛酸の故に、日本人に対して憎しみを持ち続ける人が多かった。最初、恵子さんも、「日本人なんかと話したくもない。出ていけ」と言われたり、強い怒りをぶつけられたりしたという。しかし、次第に恵子さんとの間に信頼関係が築かれてゆき、友となっていった。
恵子さんがアガペワールドの働きを始めたのは1992年。その年初めて、「アガペ 心の癒やしと和解の旅」と題し、元捕虜やその家族を日本に連れてきた。両国の元兵士たちが謝罪し、赦(ゆる)し合った。互いに交流が始まり、ホームステイし合うようにもなったという。その後、協力者も徐々に増え、延べ400人以上の元捕虜とその家族を日本に連れてくることができた。98年には、英国女王から大英第4級勲功章(OBE)を受章。天皇と皇后からは直接感謝の意を表された。
アガペワールドが設立された当時、英国には73カ所に「捕虜クラブ」があった。元捕虜たちが再会し、思い出話をする戦友会のようなものだ。しかし、彼らの話題は常に日本への憎しみ。ただ、それだけで連帯しているというのもまた事実だった。
捕虜クラブでは1年に1度、英国全土から元捕虜を集め、大会を行っていた。何人かの元軍人と交流のあった恵子さんは、この大会に出席しようと考えていた。「絶対に行ってはいけない。日本人の来るところではない」と止める人もいたが、毎日、祈り、どうすべきかを神様に尋ねる中で、そこに行くよう示されたという。
針のむしろに座りに行くような気持ちではあったが、「神様と共にその場に行って、あの墓のことを話したい。憎しみからの解放のために彼らを日本に連れて行きたい」と考え、勇気をふりしぼって大会に参加した。
案の定、「出ていけ」「日本人は帰れ」という声を浴びせられたが、恵子さんは「ごめんなさい」と謝り、故郷にある捕虜の墓の写真を見せたところ、そこにいた人々の顔が見る見る変わっていったという。
「日本人にこんなことができるのか。日本人は悪いことしかできないと思っていた」
驚きの表情を見せる彼らに、恵子さんは「日本に行きませんか。戦友の追悼式をあの場所でやりましょう」と提案した。最初は「誰が日本になんか行くもんか。何を言ってるんだ。あなたが戦後初めて会う日本人で、最後の日本人だ」と拒んでいた彼らも、徐々に、「もしかしたら、日本に行けば、自分たちの戦争が終わるのではないか。この憎しみを墓場まで持っていきたくない」と心が動かされていったという。
そして92年、最初の「アガペ 心の癒やしと和解の旅」には26人の元捕虜が参加した。紀和町で歓迎され、立派な墓に葬られた戦友を思い、彼らの心は確かに癒やされていった。それまでは心の奥底にある憎しみのため、何十年も悪夢に苦しめられてきたり、トラウマ(心的外傷)から思わず暴力的な言動をとったりしていた彼らが穏やかになっていったのだ。
戦時中、日本軍がタイとビルマ(現在のミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道を造っていたとき、多くの連合軍捕虜が強制労働をさせられていた。その監視役だったAさんにも恵子さんは会ったことがある。初めこそ、「日本軍は何も悪いことはしていない」と頑(かたく)なだったものの、交流するうちに「なぜ、生きなければならない若者がたくさん殺され、殺した私が今、生かされているのだろうか。きっと神様が私に証言させるために生かしたのではないか。すべてを話して楽になりたい」と本音を打ち明けるようになり、丸1日かけて当時のことを振り返ってくれたという。
後に元捕虜たちがAさんを訪問した。鬼のように怖かった彼は、今ではすっかり優しい紳士になっていた。Aさんは元捕虜たちの姿を見るなり涙を流して、「悪かった。赦(ゆる)してほしい」と謝罪した。すると、元捕虜たちは「私たちはあなたのことを赦しているよ。何て勇気のある人なんだ。ありがとう。尊敬しています」と言葉を掛け、Aさんと握手をしたり、ハグをしたりして、すぐに打ち解けた。その場に立ち会っていた恵子さんは言う。
「彼はどんなに怖かったでしょう。殴られると思ったでしょうね。しかし、へりくだることを選んだから、神様からの祝福も大きかったのだと思います」
捕虜収容所には、民間人の女性も入れられていた。女性は日本軍兵士から性暴力の対象とされたため、彼女たちの苦しみは体の傷をはるかに上回り、その後も心をむしばんでいった。オランダ人のジャンさんもその1人。母親にも言えないような苦しみと辱めを受けたことから、その後、「自分は汚いもの。生きる価値がないもの」と思って生きてきた。
しかしジャンさんは恵子さんに、「あの地獄のような苦しみを味わった収容所で、やっとイエス様のお気持ちが分かった。私はあの時、本当のクリスチャンになった気がした」と語ったという。そして彼女は毎日、日本人のため、日本軍のために祈ってきた。
彼女の話を聞いた恵子さんは、土下座をして彼女に謝らずにはいられなかった。その場には数十人の日本人がいたので、「私はこれからジャンさんに心からの謝罪をしたいと思います。私と一緒に謝罪をしたいと思う日本人の方はいらっしゃいませんか」と声を掛けると、日本人が全員、恵子さんの周りに集まり、ジャンさんに謝罪をした。すると彼女は、「私は本当に癒やされました」と言って、手を広げて喜びを表し、彼らとハグをしたという。
「このような体験を持つ女性は、加害国の女性はもちろんですが、特に男性に謝罪をされると胸を打たれるようですね」と恵子さんは言う。
一昨年、長崎市香焼(こうやぎ)に捕虜の犠牲者を追悼する記念碑が建立されたが、来年はその前で追悼式が行われる。元捕虜はすでに高齢のため、来日することは難しいが、その家族らが追悼式に参加する予定だ。
「最初は異国の地、しかも敵地で孤軍奮闘されたのでしょう。その勇気に敬服します」と記者がこれまでの労をねぎらうと、恵子さんは「いえいえ。神様が背中を押してくださったのです。私は、神様が導いてくださった道を歩んできただけ」と言って、穏やかな笑みを浮かべた。