愛と恋は混同しやすいことがあります。愛と恋の違いは何でしょう? まず、恋は、相手のいい部分だけを見て、相手を過大評価することです。恋愛結婚をした後に、理想と現実のギャップに気付き、性格の不一致などを理由に離婚に至ることがあります。
では、愛とは何でしょうか? 愛は、相手のすべてを知った上で、なお変わらずに愛し続けることです。恋は、「あばたもえくぼ」から始まります。やがて、「あばたはあばた」であったと気付きます。そのままでいると、「えくぼまでがあばた」に見えて、恋は終わりを告げます。しかし、愛は、恋が終わったところからスタートします。恋は、2種類の終わり方をします。
1. 別れる
2. 愛に変わる
多くの場合、別れることで終わります。しかし、恋が終わり、恋を愛に変えることができたら幸いです。通常、生まれも育ちも違う男女が、一生夫婦として寄り添って生きていくことは奇跡に近いと思います。何度も何度も、恋が愛に変わる経験をしているはずです。すなわち、相手を許し、あるがままで受け入れる痛みを経験しているはずです。
夫婦関係は、愛を学ぶ道場です。夫婦関係で鍛えられた人は、鍛えられていない人に比べると、通常の人間関係を円満に持つことができるはずです。許すこと、愛すること、受け入れること、相手に譲ること、自分に死ぬことなどの大技をすでにマスターしているからです。
しかし、それらの大技が効かないようなモンスターはどこにでもいます。どんなに夫婦関係の中で愛の訓練を通されていても、これでゴールということにはなりません。おそらく、愛は一生学び続けなければならないと思います。
私たちは案外、人の欠点はよく見えるし、分かるものです。しかし、自分の欠点や罪はなかなか見えないし、認めたくありません。私たちの欠点や罪は何でしょうか? 愛がないことです。
愛と恋を混同している人は、自分には案外寛容で、愛がある人間だと思うかもしれません。恋をすることは難しくありません。相性のいい人や好きなタイプの人と仲良くすることはできます。しかし、愛せないタイプ、許せないタイプの人は、どこにでも存在します。
聖書は、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」と語ります。愛とは、気に入らないタイプの人を心から愛し、祝福を祈ることです。それができるかどうかで、愛があるかどうかがはっきりと分かります。
愛がないのが私たちの本当の姿です。愛がないことは、人をねたむことでも分かります。ねたみは、天皇陛下や総理大臣、大スターなどに感じることはまずありません。自分と立場が変わらず、年齢が近く、能力的に近い人が脚光を浴び、称賛され、成功し、豊かな暮らしをしていることを知ったときに、ねたみを感じるのです。
ねたみを乗り越えている人は、自分の興味のあるジャンルで、しかも、自分が「こうしたい!」「こうなれたらいい!」と思っていることをしている人がいたときに、心から祝福して「よかったね!」と言ってあげられる人です。非常に難しいはずです。しかし、愛は、身近な人の幸福や成功を心から喜ぶことです。
そして愛は、相手のあるがままを受け入れることです。消極的には、気に入らない人の誹謗(ひぼう)中傷をしたり、うわさ話をしたり、拒絶したり、無視したり、嫌がったり、否定しないことです。愛は、そんなところから始まるのです。少しでも愛に生き始めるなら、その分だけ幸せになります。
聖書をひと言で要約するならば、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という言葉になります。隣人愛に生きるなら、聖書を生きていることになります。しかし、愛を追求し、愛に生きようと努力すればするほど、「不可能!」というところに行き着くものだと思います。だから、敵を愛し、十字架の上で赦(ゆる)しを祈ったイエス様が必要なのです。
イエス様に愛を祈り求め、与えられた愛に生き始めたら、奇跡が起こります。天国の幸せを味わえるようになります。天国の幸せを味わい、その幸せを自分だけではなく、周りの人にも分け与え、ひいては、世界に愛と平和をもたらしていくことにつながります。
現在世界では、血で血を洗うような争い、紛争、戦争が各地で繰り広げられています。やがて日本も巻き込まれる可能性があります。一体どうしたら、憎しみの連鎖を止めることができるでしょうか。
それは、1人の人の愛から始まります。十字架につけられてもなお、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と赦しを叫ばれたイエス・キリストの愛こそが、憎しみの連鎖を止め、世界を救うと信じます。
その愛を頂いて、自分が幸せになり、その幸せを分かち合い、幸せな国、幸せな世界を作っていきたいものです。
◇