5月11~12日。車外からは4千メートル級の天山山脈が雄大に見えた。その裾野に広がる草原にはタンポポの花が咲き誇っていた。白樺林が立ち並ぶ主要道路を西に向かい到着したところはチョルポンアタであった。そこには、たくさんの大小の岩が点在し、これらが山頂から転がった自然石で、幾つかの石には絵が描かれ文字が彫られていた。
近くには船着き場があり、一行は観光船に乗り込んでイシク・クル湖を周遊した。港から離れて船から高山を眺めると大変な絶景に驚きを禁じ得なかった。恐らくこれらはノアの時代の大洪水で起きたとも考えられる。深い海を眺めると、どこまで深いか分からないほど怖さを覚えた。黙示録21章の新天新地には海がなく、恐怖もないのだ。
さらに一行はアクベクム遺跡に向かった。そこは古代東方教会の礼拝場があった場所である。この地はシルクロードの交差点として多くの民族やソグド商人たちも行き交う国際都市であったという。この地域には中国人居住区や仏教徒たちの住居もあった。
この地からさまざまな遺跡が発見され、中国の史書『隋書』『新唐書』の康国伝に砕葉と表記されているもので、629年に中国を出た玄奘はこの地で突厥の王から歓迎を受け、ここを通ってインドに向かったが、彼の『大唐西域記』(巻1の7)には素葉水城(スーヤブ)と記した地名がある。
この地で日本の発掘調査団がロシア・スラヴ大学との共同調査で墓誌を発見して、スーヤブがこの地であることが分かった。7世紀ごろに中国唐がこの地に軍事拠点である「砕葉鎮城」を築いたことが『旧唐書』に記されているのと一致した。
写真の拓本は、帝京大学文化財研究所の発掘調査団によるもので、文字が欠けているものの「砕葉鎮」と見える。この石碑は杜懐寶碑といわれている。他に唐代の銅銭「開元通宝」や8世紀ごろのソグド文字貨幣も発見された。
7世紀から8世紀に設立されたといわれる古代東方教会の活動が、この地にも盛んになされていたことの証しとして、十字形で建てられていた土台の会堂遺跡があり、聖書や壁画も発見されたといわれている。私たちがこの地を訪問すると帝京大学文化財研究所の団員がドローンを使って発掘調査をしていて、いろいろな遺跡発掘調査結果や説明を聞くことができ、大きな収穫を得た。
私たちはここから少し車で移動して世界遺産のバラサグン遺跡、ブラナ塔、小さな博物館を見学した。この地には王国が築かれていたともいわれ、中央アジア一帯にみられる石人像がたくさんあった。小さな博物館に入ると数点のシリア文字で刻された十字墓石や多くの十字徽章も展示され、景教碑の文字のない上部分が置かれてあり、初めて文字のない碑に接し、どうしてここにこのような碑があるかに興味が湧いた。
いよいよキルギスを発つ時間が近づき、最後の歓迎食事会後にお土産として、キルギス訳の聖書を頂いて大変感動した。そして滞在中のおもてなしに心よりの感謝をささげた。中央アジア研究所所長のチェ宣教師ら一行には大変親しくしていただきお世話になった。この恵みはすべて主にある恵みであったことを忘れないだろうし、またゆっくり見たいのでもう1度興味を持たれる多くの方々と訪問する機会を祈った。
お別れが近づき、ハグや握手で別れた。私と通訳者のファン宣教師は旅行会社の信徒の方が運転する車で、空港へと向かった。その空港の検疫所ではハプニングが起きたが、万事を導き支えてくださった主なる神様に感謝をささげ、帰途に着くことができた。
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