10年ほど前の2007年春、有限会社イーグレープとキルギス国文化省・在日大使館主催で「シルクロード中央アジアの旅、古代東方教会遺跡巡りツアー」の予定が、参加者不足のため取りやめとなり、二度と行く機会はないと考えていたところ、主なる神の奇しき導きから初めてキルギス国に足を運ぶことができたことは、感慨無量であった。
1885年、この地のビシュケクやトクマクの墓地でエリカオン信徒たちの墓石が発見された。当時の数は610個、シリア語やトルコ語の文字で刻まれ、中央には十字が彫られている。年代はギリシア暦の数字で、古くは858年から、新しいものに1342年があり、480年ほどの開きがある。これらは850年代に中国武宗皇帝による、道教以外の諸宗教に対しての迫害や国外追放に遭った後のことだ。宋代や元代になると景教の名称が消え、也里訶温(エリカオン=福音)と改名し、会堂を十字寺とした。
今回、この機会を与えてくれたのは、キルギスとその周辺国で働く100人近い韓国宣教師たちによる「古代東方教会史の学び」のメンバーからの誘いであった。会の代表は崔根奉(チェ・カレブ)宣教師で、2016年秋に私たちが主催した国際景教研究学術大阪大会に講師として来日され、その時に相互に学び合うことを約束したことがきっかけとなった。これも、景教研究の1つの成果といえる。
2017年5月5日、私は日本からキルギスまでの長旅で、何もトラブルがないように主なる神様に祈って出発。1人で羽田空港を発ち、韓国インチョン空港に向かった。インチョン空港のチケット発券の場で日付が1日違っていることから行けないと言われ、第1のトラブルが起きた。理解に苦しんだが、一緒に行く通訳者のファン宣教師と連絡が取れ、日付をミスした旅行会社と空港会社との連絡で機内に入ることができ、安堵した。
インチョン空港からアシアナ航空により到着したのは、カザフスタンの旧首都アルマティ(アルマトィ)で、そこから数時間待って、キルギスの首都ビシュケクに着いたのが朝だった。日本とキルギスの時差は約3時間。出迎えに来てくれたシルクロード研究所所長のチェ・カレブ宣教師と半年ぶりの再会を喜び、感謝し合った。
5月6日。ホテルでしばらく休み、食事を済ませて観光に出掛けた。キルギスの国境付近に車を停車し、検問所を徒歩で通過してタクシーに乗り、カザフスタンの大平原に向かった。その道こそ昔からいわれてきたシルクロードの1つで、両サイドの山頂には雪を冠した高い山並みが続き、途中に点々と墓石が幾つも見えた。墓石は、旅の途中で命を落とした者たちの遺体を埋葬して建てられたとのことだった。
この時期になると、平原にはケシの花が一面に咲き、その色に圧倒されるとガイドのチェ宣教師は話していたが、今年は残念なことに時期が遅く、まだ咲いてはいなかった。
一行は、高山を越えるとロシアという手前で昼休憩をした。雄大な山々のふもとに多くの馬が群れ、町中では羊の群れが身近に見える光景はのどかであった。
タクシーは向きを変え、世界遺産の岩絵(岩刻絵)の見学に出掛けた。カザフスタン南東部のタムガリ峡谷のチュリ山岳地帯には、多様で芸術的な5千点もの岩絵があり、世界遺産に認定されていた。この地は古く遊牧民が行き交い、紀元前14世紀ごろから動物や当時の人々の暮らしぶりを今に伝え、中央アジアの遊牧民の遺産だという。岩絵以外にも、青銅器時代から現代に至る膨大な数の墳墓も残されていた。まったくスケールの大きい岩絵であった。
5月7日。朝ホテルを出て、近くの20人前後が集う韓国宣教師が指導するキリスト教会の礼拝に参加した。外観は中古の建築物のようであったが、よく見るとコンテナを4つ組み合わせて造られた会堂であった。すでに集会は始まり、穏やかなリズムのワーシップソングを4曲歌い、使徒信条を唱え、キルギス語での祈りの最後にはアーメンをオーメンと発音していたことが耳に残った。
メッセージはアメリカから来られた宣教師の特別スピーチで、まさにインターナショナルの雰囲気であった。会衆は子どもから青年男女、高齢者があり、1週間前に主イエスを救い主として受け入れた若い女性が、友達を連れて参加していた。スピーチの聖句は詩篇139篇からで、全能の神はどこにでもおられて、私たち一人一人の歩みと生活を知っておられる唯一の神、この方に信頼すれば安心した日々が過ごせると伝えていた。
礼拝後は、報告と新来者紹介の中で私たちも歓迎された。その後食事に誘われ、少し日本語ができる国立大学生や神学生たちとの交わりが与えられた。食事後に外に出ると1頭の羊がひもにつながれ、これから屠殺(とさつ)して食べるというもので、すでに火と鍋も用意されていた。
そこには高齢の会堂管理者夫婦がおられ、話を聞くと何年か前に日本のアンテオケ宣教会の宣教師が来ていたと言われ、「アスミ、アスミ」と言うので誰のことかと考えていたら、安海(あつみ)宣教師のことと理解できた。さらに話を聞くと、結婚した娘夫婦が日本で宣教師として働いていることを知り、帰国して電話したところ、上手な日本語で会話でき、親しさを感じた。
午後にチェ宣教師宅に伺い、元の時代のエリカオン教徒(注)の墓石を見せていただき、拓本作業に取り掛かった。計4枚作成し、1枚を持ち帰り、石材店に依頼してレプリカを作製しようとしている。(つづく)
(注)使徒時代以降、古代シリアやペルシアから東方に宣教した信徒たちは、唐代中国では初期にペルシア教と呼んでいたが、745年に景教と改名、会堂を景寺とした。元の時代になると也里訶温(エリカオン)教と改名、会堂を十字寺とした。
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