5月8~9日。講義初日、川口以外に4人の講師が話された。1人は韓国から、1人はイスタンブールから、1人は福岡から、1人は地元から各宣教師たちが発表。アルメニアのセパン湖で撮影した古代東方教会のカチカ(十字)遺跡映像が映し出された。そこには古代教会の十字墓石が多く遺されており、見ると景教碑の十字とよく似ていて驚いた。
イスタンブール在住の宣教師は、中国元の時代のモンゴルから西方に指導者を派遣したことについて映像を含めて述べた。
3人目の福岡から参加した黄錫千(ファン・ソクチョン)宣教師は、英文で書かれ日本語に訳されたスハ・ラッサム著、浜島敏訳の『イラクのキリスト教』の一部を紹介して聴衆に理解を深めた。1人は会の幹事をされている宣教師で、佐伯好郎著『景教の研究』の朗読をしていた熱心さに感心した。
川口は東方教会の1世紀からの歴史について語るよう依頼を受けていたので、その点について聴衆に理解を深めるよう語った。要約すると、どうして福音は1世紀の時代に西アジアに広く宣教されていったのかについてである。
(1)主イエスの降誕の時、東方で輝いた星に先導されてやって来たのはペルシャ人で、帰国して主イエスの到来を伝えたことにより巡礼者が増え、聖霊降臨の時にパルティアやイラクなどの巡礼者が増え、信仰者として帰国して西アジアに福音が広まっていったこと。
(2)西アジアのパルティア国で語られていた言葉がアラム語、シリア語であったこと。これは地中海周辺ではギリシャ語が普及しており、パウロやルカやテモテなどが福音を伝えることができたのとよく似ている。インドや西アジア、中央アジアに福音を伝え、シリア語が普及し、その言葉が唐代の中国にまで広まり、景教碑にもシリア語が多く記載され、シリア語の賛美歌から漢訳されたものやシリア語が刻された十字墓石も多く発見されている。
(3)ローマ帝国が70年にエルサレム神殿を破壊し、130年にもキリスト者への迫害を加え、追放と離散したパレスチナのユダヤ人やイエスを信じる信者が国外に、特に反ローマのパルティア国に入ったことにもよる。
続いて、東方教会の本拠地、シリアのエデッサやニシビス宣教について話した。
『教会史』を書いたエウセビオス(260?~340?)は同書で、シリア北部にあるエデッサについて次のように記した。
「・・・その方<イエス>が死者から復活し昇天した後、12使徒の1人のトマスは、神的な力に動かされ、キリストの70人の弟子の1人に数えられているタダイを、キリストについて教える使者・福音伝道者としてエデッサに遣わした。そして、彼を介して、わたしたちの救い主のすべての約束が成就されたのである。これについて書かれた証言は、当時王の都だったエデッサの記録保管所から借り出された文書にある」(『エウセビオス「教会史」』秦剛平訳、講談社)
ここにある記録文書はシリア語で書かれ、その記録文書は28、29年に起きたとある。彼らはイエスが語られた神の言葉やなされた事柄の福音を伝えた結果、シリアに大勢の信徒が生まれ、教会が建ち、さらに福音は東方世界に、つまり東の果てまで拡大していった(シリア語『使徒アダイの教理』)。2世紀のオスロエナ王国の時代には福音の教えが公認され、201年には洪水で教会堂が流されたとの記録もあるほど。
講義の最終の時に主催者から講師へとお土産を頂いたことは感無量であった。
5月9~12日、イスク・クル湖(注を参照)を1周しつつ遺跡を訪ねる。
(1)首都のビシュケクを離れて、トクマク地区に着く。ここにはトクマク墓地があり、1885年に600を超えるシリア語やトルコ語で刻んだ十字墓石が発見された。制作年代はギリシャ暦の数字で刻まれ、古くは紀元後858年から、新しいものに1342年があり、480年ほどの開きがある。一行はチェ宣教師による解説から、この地はタルサ地区と呼ばれていたと聞いて、景教碑にも「達娑」と刻まれ、信徒を意味することから、広大なこの地には多くの東方教会信徒が行き交っていたことを覚えた。当時はソグド人もいたといわれる。
(2)宿泊地は山に囲まれた修道院遺跡の近くに移動式ホテルのユルタが点在するタシュラバトの地。ここに東方教会信徒たちの祈祷院のような煉瓦や石でできた修道院遺跡があり、当時の信徒たちの交流が浮かんできた。室内では皆で宣教のための祈りを各自がささげた。東に行けば中国の新疆ウイグル自治区で、シルクロードの中継点に立っていることを強くかみしめることができた。
(注)イシク・クル湖について。湖の周囲約760キロ、面積約6200平方キロメートル、最大水深約670メートル、標高約1600メートル、透明度20メートルを超え、琵琶湖の約9倍の大きさの山岳湖。名はキルギス語のイシク(熱い)・クル(湖)から由来し、マイナス20度を超える冬でも凍結しない。中央アジアの真珠ともいわれ、昔、玄奘三蔵が記した『大唐西域記』にも「熱海」と記されている。湖底には集落跡の遺跡が沈んでいて、昔から多くの伝説があり、ノアの大洪水でできたともいわれる。
(3)次いで一行は天山山脈の冠雪を眺め、バスに揺られながらキルギス・キャニオンに向かった。そびえ立つ岩を眺め、大洪水の激流で岩が削られていったとしか考えられない鋭い光景を見つつ、危険を考えずに頂上にまで登った。
(4)次いで私たちは、使徒マタイの墓といわれる所を訪ねた。マタイの死と墓所については不明で、一説にイタリアのサレルノ大聖堂といわれるが確証はない。一方、イシク・クル湖説は、マタイはシリアで死に、支援者によってシルクロードでこの地に運ばれてきたという。
はっきりした確証はないが、ロシアの学者が湖底を探査して発見された瓶の土器にアルメニア系シリア文字が書かれ、この地には14世紀にアルメニア王朝があり、伝承としてマタイが埋葬されたと伝えられ、それがこの地の説となった。解読やさらなる探査が行われることを望むところである。丘の上には木の十字が立っているが、イスラム信徒が壊して後、再び立てたものである。(つづく)
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