翻訳者を腹立たしいほど悩ませる障害は、舌をからませて出す音や、ややっこしい文法だけではありません。生活や慣習の、想像もできない相違から、多くの問題が生じます。
ある意味では原住民たちの方が、私たちより聖書時代の文化にいくらか近いといえます。およそ世界の原始的な社会にあっては、露天の井戸から汲まれる水、脱穀のため穀物を踏む牛、ひき臼の石を動かすロバ、それに油のランプや羊の群れを理解するのは、私たちのように機械化時代の社会に住む者より容易です。
それにもかかわらず、特に現地の助手と一緒になって、聖書の言葉をそれが意味するままに理解してもらおうと努める翻訳者たちには、重大な問題があるのです。
聖書の記事には土地の助手たちにとっては誠にばかげていると思えるところがあります。ペトロがモーセとエリヤとイエスのために、それぞれ1つずつ、3つの小屋を建てることを申し出た(マタイ17:4)と聞いて、1人のマヤ人の説教師は抗議しました。
「小さな小屋を3つ建てるより、大きな小屋を1つ建てた方がよほど簡単だが、ペトロはそれが分からないのかな」と、この翻訳助手は尋ねました。明らかに建築事情に暗いペトロのことが、この若いマヤ人の男の気になったのです。
また一方、時には土地の人たちが、早合点して間違った結論を出します。自分たちの文化に類似なものを見つけると、万事それに従って聖書をのみ込んでいきます。メキシコのゲレロ州のアステック人の中に、イエスが荒野で誘惑を受けた後、御使いたちがどんなふうにイエスに仕えたか(マタイ4:11)を説明しようと進み出た者がおりました。
「なに、ちょうど金持ちの地主が銃を持った護衛を連れてるようなもんだ」と言って、宣教師をびっくりさせました。それにしても、確かにゲレロの山中の寂しい場所に出掛けて行く善良な人には、護衛が必要なことなのです。
環境がまるで対照的に相違するところでは、最良の説明をしても、残念ながらどうにもならないのです。ユカタン半島のマヤ人たちに、どうやって山や川のことを語れましょう。あの平らな、樹木の茂った石灰岩の平野では、たいていのマヤ人は60メートル以上の山を見たことがありませんし、川といえば、どしゃ降りの間でさえ、2、3メートルも流れると、水が地表から消えて地下水路に流れてしまうのです。
同じように、東部ペルーのジャングルに住むシピーボ人たちにも、聖書記事のあちこちに、解しかねるところがあります。彼らは、アマゾン河の一大支流に沿った広大な奥の知れないジャングルに住んでいるので、荒野を、本当に何も生えていない場所という意味には考えることができません。
マタイによる福音書第4章を訳すのに、「荒野」に当たる1番いい訳語は「誰も住んでいないところ」なのですが、結局これは森林の奥地を意味することになります。ところが、シピーボ人が首をひねるのは、バプテスマのヨハネ(6)が説教したのが森の中だったということではなくて、イエスが森の中で飢えたという事実であります。すなわち、シピーボ人には、イエスに何か動物を殺すか、せめて果物や食べられる草を見つけるぐらいの知恵がなかったとは信じられないのです。
彼らにとって聖書の物語は、身近に起こった事件とはどうしても考えられないのです。それは、環境や文化の性質があまりに違いすぎるからです。それなのに、聖書の言葉は彼らのための教えであって、どこかよその人たちのためにあるのではないということを、しみじみ悟るような形で福音は伝えられなければならないのです。
その言語の発音と文法とに精通し、文化上の諸問題(私たち自身の生活様式や考え方との不可思議な相違も、また類似点をも含めて)に慣れて、さらにどんな話題でも話し合えるほど土地の言葉を流暢(りゅうちょう)に使えるようになって初めて、本当に、人がまっとうな翻訳にとりかかれるようになるのです。
翻訳事業に入る第1歩として、数種類の優れた学問的な注解書を使って、聖書の節や句を研究しなければなりません。ごく分かりきった節でさえ、十分考えてみる必要があるのです。
普通は、1節の意味を調べるのに幾つかの権威書を十分注意深く参照したのち、その節の試験的な訳を幾つか組み立てていくのです。翻訳者が、大ざっぱな原案を作ったことすら翻訳助手に知らせないことがよくあります。彼らは、よく分からなくても、宣教師のすることには何でも、「はい、さようでございます」と同意してしまう傾向がよくあるからです。この試験的な原稿は、ただ節の意味を説明するのに使い、翻訳者は、もっと良い言い回しを助手の口から出させようと願うのです。
もし翻訳者が自分の言い回しによる翻訳に頼りすぎると、その結果、出来上がる訳は、ややもするとぎこちなく、訳者の言葉の影響で外国語臭いものを多く含んでしまうことになります。こういった予備的な原案は、翻訳助手たちの間の討論を刺激するように作られるものです。この助手たちは分かりやすい翻訳をするのに、自分たちの理解が十分であると納得するまで、歴史的な背景についていくらでも知りたがるものです。
南部メキシコに急速に成長してきた教会のための、ツェルタル語新約聖書の翻訳助手たちは、1節を1時間以上もかけて討論し合うこともよくあります。時には、教会のほかの会員に相談するために1日2日待つことさえあります。そして、パウロ書簡の中にある難しい語句が、やっと明確に彼らの言葉で表現できると、皆の顔はほころび、理解と感謝で目を輝かせ、こう叫ぶのです。「パウロの口調そっくりだよ」
<注>
(6)「バプテスマのヨハネ」、新共同訳では、「洗礼者ヨハネ」となっているが、他の訳ではバプテスマを使っているし、それが原語の意味でもあるので、本コラムではそれを採用する。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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