昨年7月から始まった本コラムも、いよいよ今回が一応の最終回(必要な場合時事的に寄稿させていただく予定)となった。読み続けてくださった方にお礼を申し上げるとともに、私自身、ここまで系統的に米国大統領選挙を解釈したことがなかったため、自分にとってもいい勉強になったと思う。
旧態然としたメディアのトランプ報道
20日には「トランプ新大統領」誕生がリアリティーを持って報道されているだろう。さまざまなトラブルに見舞われながらも、恐らくはきちんとした形の就任式になることであろうから、その点は心配していない。むしろ気になるのは、トランプ大統領の言動を評価し、それを伝えるメディアの旧態依然とした姿勢と方法論である。
米国時間の11日に行われた初の記者会見では、トランプ氏にいいようにあしらわれた感がある。「こんなにひどいことをする大統領が誕生するんですよ、皆さん」という論調で各メディアが書きたてている。それがツイッター上に流れ、炎上が起きる。しかし当のトランプ氏本人はどこ吹く風のご様子・・・。
これでは、われわれには全くトランプ氏の素顔が見えてこない。彼のパフォーマンスや演出が数枚上手だ、と言ってしまうとそれまでだが、メディア側に「こういう相手にどう肉薄しようか」という泥臭さが感じられない、と言ってしまうと大胆な発言になるのだろうか。しかし、はっきり言わせてもらうなら、PC(ポリティカル・コレクトネス)の縛りをいつまでも持っていては、真の「トランプ像」には迫れないのではないだろうか。
映画「ダークナイト」の悪役ジョーカー
久々に映画をヒントとして考えてみよう。このような「暴れん坊」を敵役として扱ったアメコミヒーロー映画に「ダークナイト」がある。2012年、全米で爆発的にヒットした新バットマンシリーズ第2弾である。この中に登場するジョーカーという悪役は、今までの敵とは一線を画していた。
ヒーローのよくある「正義の見方」然とした立ち振る舞いを見事に逆手に取り、悪事を重ねていく。警察やバットマンもこれに対処しようとするが、いかんせん「人命第一」「社会ルールを遵守(じゅんしゅ)しての逮捕」にこだわらざるを得ないため、結局はジョーカーに一本取られてしまう。こちらが正攻法で相手に決闘を挑んでいるのに、ジョーカーは平気で後ろから、何の罪悪感もないまま襲いかかってくるような相手だからである。
映画の中では、ついに業を煮やしたバットマン(ブルース・ウェイン)が「悪を征するのには、自らも悪になる必要がある」とつぶやき、彼の持つ全ての資財を使って、ジョーカーを追い詰めていく決断をする。しかし、そのあまりに悪どいやり方に、長年協力してくれた仲間たちからもバットマンは見放されてしまう。
しかし、この彼の活躍(暗躍?)のおかげでジョーカーの悪事は未然に防がれる。一応のハッピーエンドだが、物語はそこで終わらない。「悪に染まったバットマン」という言説が街に流布し、「正義の味方だったはずのバットマンは、実は悪人だった」と人々が嘆くような結果となってエンドクレジットとなる。
これはあくまで映画の話だが、見ていて突きつけられた問いがあった。ここまでしないと見えてこない、分からない「真相」をあなたは見る覚悟はあるのか、ということ。今までの世界観、つまりPCの庇護(ひご)の中から相手を評価するというやり方が通用しない相手が世の中には存在するということだ。そのような存在に対し、自分の立場を保持しつつ向き合うだけで、果たして本当に相手を知ることになるのか、という疑念がわいてくることを否定できない。
特に、メディアや政治に対して守るべきものが比較的少ない一般庶民は、かゆいところに手が届かない、隔靴掻痒(かっかそうよう)を感じながら報道を見ていることだろう。確かにPCはルールとして必要ではある。しかし、PCを無視する流れが生まれつつある以上、これを金科玉条のごとく振りかざしているだけでは、物事の真実が結果的に隠れてしまう。今はそんな事態が発生しているといえる。
この連載コラムで意識してきたこと「キリスト教保守層のリアルな今を伝える」
そういった意味では、私もこのようなコラムを発信している(メディアの片棒を担いでいる者)以上、この誹(そし)りは免れ得ないと自覚している。特に宗教(キリスト教)世界から見た大統領選挙に関しては、従来の流れに迎合してしまったところもあると正直に告白しなければならない。
しかし、メディアの論調がどうであれ、決して譲れないポイントが1つだけあった。それは「キリスト教保守層(緩やかな意味での福音派)」の動向を、リアルに伝えることである。
フィールドワークや聞き取り調査の専門家ではないので、その精度に関して不安なところはあるが、宗教的保守層が意識するとしないとにかかわらず醸し出す雰囲気、つまり文化的な志向性についてはかなり確かなところを把握していると自負している。
理由は2つ。第1に自分もキリスト者として保守層に位置し、その流れを汲む宣教師によってクリスチャンとして育成された背景を持つということ。これは意外に見えないところで継承されるヒドゥン・カリキュラムである。
私の出身は愛知県の田舎町であるが、宣教師と関わりがあったせいで、幼少時から家には果物の皮をむくアメリカ製品ピーラーがあった。また、クエーカー教徒が描かれた「オートミール」という食品を目にすることが多かった。つまり1970年代の日本にいながら、「米国(主にキリスト教保守層)の文化」が当たり前のように日常に存在していたということである。
この自分の肌感覚を私は信頼したい。これは理論や整合的に説明し切れるものではないからこそ、PCに触れないリアリティーがあると確信している。
第2に、現在、米国南部に多くの友人を持ち、彼らからリアルタイムでトランプ氏、ヒラリー氏に対するコメントをもらうことができたということである(関連記事:キリスト教から米大統領選を見る(25)新駐日大使候補ハガティ氏とテネシー州宣教師のメール)。彼らはいわゆる「バイブルベルト」という地域に住む、まさに市井の人々である。
前回取り上げたビル・ハガティ氏を例に挙げるなら、日本でこの報道を聞いただけではホワイトハウス関係の「雲の上の人」という感覚になる。しかし、メールをくれた友人にとっては、「手の届く近しい知人」とハガディ氏を捉えている。だから会いに行こうということになるし、それを喜んでメールしてくれる。ここにもメディアのPCに触れない、リアリティーがあると思われる。
宗教的な観点を精査するのは、はっきり言って限界が存在する。考えてみれば自分の意見や感覚を人に正確に伝えることは、どんな人間にとっても「これで十分」と確信を持って言えることはないだろう。
そう考えるとき、私たちはPCという覆いを取り去ってなお語られる人々の「語り」にこそ、目を留めたいと願う。矛盾があったり、不整合があったりすることが当たり前、という前提を保ちながら、相手の語りに耳を傾けることである。そこから見えてくる大きくもぼんやりとした原則を、物事の善悪にとらわれず受け止めることである。
そうする時、そこに矛盾と整合性を併せ持つ「人間」が発信するメッセージを聞き取ることができるだろう。その声を、今までのデータや言説にとらわれず、はっきりと提示することこそ、私たちに与えられた使命であると思う。
そういった観点から最後に言わせてもらうなら、今回の大統領選挙は、今まで何とか保たれてきた「統合作用」と「変革作用」の振幅が初めて異例の動きを示したといえよう。フリーハンド的な予測不能の動きを示し始めたと言い換えてもいい。従来、PCで制御されていた二項対立が、今回初めてその機能に支障をきたし始めたということである。
今までは宗教的観点における重要なファクターとして存在していた数々の要因(中絶問題、LGBT問題)が、ついにPCの枠で捉えられない動きを見せたということである。私はこれを「経済状況の逼迫(ひっぱく)がこれらに取って代わった」と表現したが、それが正しかったかどうかは、今後の福音派の動きが明らかにしてくれるだろう。
いずれにせよ、トランプ新政権が誕生する。先行き分からぬ世界に私たちは否応なしに突入することになる。その先にあるものが「希望」であることを願いつつ、コラムを閉じることとする。
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