袋詰めセメントの販売では国内トップを誇る建築資材の総合商社「株式会社タカボシ」(本社:東京都足立区)。50年を超える歴史を有し、「お客様第一主義」をモットーに、堅実な歩みを続ける。同社の創始者であり、現在は代表取締役会長を務める石山伊佐夫氏に、これまでの歩みと、経営を通じた信仰の証しを聞いた。
7人兄弟の3番目に次男として誕生した石山氏は、15歳で茨城から東京・浅草に単身上京し、セメント会社に就職し、昼は職場で働き、夕方からは定時制高校で学び、村田簿記学校で会計学を習得した。タカボシの前身となる「高星商会」を創業したのは22歳の時。22歳という若さでの独立の決め手となったのは、就職先の社長の一言だった。
「競馬好きの社長は、当時人気が非常に高かった『ハイセイコー』の馬主でもありました。それである日社長が雑談の中で、『石山ね、お前たち50人が1年間かけて稼いだ金よりも、ハイセイコーが1周走って稼いだ金の方が多いんだよ』と言ったのです。私たちを馬と比較していることに対して非常に心外に感じ、その一言がきっかけとなって、22歳で独立する後押しになりました」と当時のエピソードを語った。
ただ、石山氏は、小学3年の頃から「社長になりたい」という夢を持っており、東京で就職してからは、「とにかく社長になりたい」という一心で、給料のほとんどを開業資金として貯金していたという。ところが、独立しようとしたとき、当時世話になっていた兄が急きょ土地を買うことになった。当初の予定では地型が悪く、買い増しするには資金不足だという話を兄から聞いた石山氏は、自分が応援すれば、地型が良くなるのではないかと思い、貯金を全て解約して兄に渡してしまった。それにより、地型の良い土地を買うことはできたが、石山氏の方は無一文になってしまった。
独立は、まさに裸一貫での出発だった。石山氏は、「会社というのは、お金がなくてもできるんですね。一生懸命やっていると応援してくれる人が必ずいる。私の場合は、兄の家の斜め前にあった自動車修理工場の社長が、車を貸してくれたのです。そのおかげで営業に回ったり、配達したりできました。仕入れも販売も現金で回収できるところを選んで商売をし、開業1年後には、本格的に商売の形ができ、今のこの場所に30坪ほどの中古の土地付きの建物を買うことができました」と話した。
当時の日本は高度経済成長真っただ中で、石山氏も「独立する時期のタイミングが非常に良かった」と話す。しかしその一方で、タカボシの成長は、ピンチの時にこそ培われたものだと語った。1979年の第2次オイルショックで、東京からセメント他全ての建築資材が消え、建設業者が困窮する中、付き合いのある運送会社や砂利販売業者のトラック延べ100数十台もの車を走らせ、滋賀県にある大阪セメント(現住友大阪セメント)からセメントを運び、いくらでも高く売れるときに、値段据え置きで提供するようにした。石山氏のこの突拍子もない考えが、「東京にタカボシあり」と一躍、同社の名を認知させることになった。
石山氏は、「このことが今日のタカボシの基礎となっています。オイルショックがなかったら、うちの会社は今のように発展することはなかった。ピンチというのはチャンスなんですね」と話した。そして、「お客さんの立場に立った商売を続ければ、会社は長く続けられる。自分だけ利益を得るとか、お客さんを無視した経営は続きません。オイルショックの時も値を吊り上げて販売したところからは、その後社会が正常に戻ったとき、お客さんは離れていきました」と明かした。
「『お客様第一主義』が創業当初からのタカボシのスローガンです。自分がされてうれしいことは人にもする、自分がされて嫌なことは人にはしない、これがお客様第一主義の原点です」と話す。一貫した「お客様第一主義」の経営が、タカボシをここまで成長させたことを強調した。
石山氏とキリスト教の出会いは1984年。当時、自身が会長を務めていた足立法人会青年部会の設立3周年記念に四国の松山福音センターの万代恒雄牧師を講師として招いたのがきっかけだ。牧師を講師に呼んだのは、経済とは離れたスピリチュアルな話を聞くためで、会員からの「四国に面白い牧師さんがいる」という情報を得て、万代牧師を招いたという。
「万代牧師に来ていただき『人生を3倍に生きる』という題で話してもらいました。その中で、『イエス様を信じただけで天国へのパスポートを受けることができる』と言われ、『信じただけで天国にいけるなら信じたい』と思い、その次の日曜から妻と2人で、毎週松山福音センターの礼拝に通うようになりました」と信仰を持ったきっかけを話した。その後石山氏は、東京から毎日曜の朝飛行機で松山に行き、礼拝後に東京に戻ってくる生活を1年続け、1985年8月4日に夫婦で洗礼を受けた。
その後も信仰生活を歩んできた石山氏だが、本当の生ける神キリストと出会ったのは、受洗して10年以上たってからだった。1996年12月24日に高速道路の非常口に閉じ込められ、万事休すとなり、「神様何とか開けてください」と祈ったときに、絶対に開かない扉が開き、外に出られた。「この時初めて神様の存在を実感しました。携帯電話の電波のように、目には見えないけれど、そこに必ずいてくださる。この時から無条件に神様の存在を信じ、徹底して日曜礼拝を守るようになりました」と語った。
「神様がいてくれることはクリスチャンの特権」だと話す石山氏は、その後も幾つもの大病を患い、現在もがんを抱えているが、いつも神に救われていると話す。「2002年に胃がんで入院していたときのことですが、信頼し、副社長までやらせた男が、皆をそそのかし、クーデターを起こしました。入院中を選んでの行為が悔しくて、夜も眠れませんでした。その時に、妻がイザヤ書41章10~16節を紙に書いてくれました。私は、これを読んで気合が入り、ご飯も喉を通らずにやせ細っていたのが、この御言葉によってよみがえりました」と御言葉の力を語った。「この御言葉は全て暗記してしまい、妻が書いてくれたものは手作りパウチに入れ、今でも肌身離さず宝物として持ち歩いています」と上着の内ポケットから取り出し、そこには「2002年 妻からのプレゼント」と記され、大切にしていることを実感させられた。
「神様は、努力の結果、万策尽きたと思う頃に働いてくださるお方だと思うんですね。だから信仰を持っていれば、ピンチになったときに必ず助けてくれます」と力を込める。建設業界は今年、東京オリンピックに備え、空白の年といわれているのだが、タカボシでは、創業以来の大口の注文があったという。「今から3年前の創立50周年の記念会の時に、宮城県気仙沼市に義援金を送ったのですが、今年、突然、気仙沼市から防潮堤用のセメントの引き合いがふって湧いたように来たのです。そして、会社創業以来最高の大口受注をいただくことができました。本当に感謝なことです」と神の恵みを証しした。
「多く種をまくと、実りの秋の収穫は大きくなります。『惜しまず豊かにまく人は、刈り入れも豊かなのです』と聖書に書いてある通りです。ビジネスでも、もらうことばかり考えていたら大きく成長できない。目先のことでもうからなくても、尽くしていれば見返りはどこかから必ずあります。義援金は決して見返りを期待したものではありませんでした。だからこそ、神様が報いてくれたのだと思っています」と信仰による経営の極意を明かした。
タカボシは、社員だけでなく、その家族も大切にしている。「社員を大事にすると、やはりそれに応えてくれると思います」と力を込める。また石山氏は、タカボシをオールクリスチャンのクリスチャンカンパニーにしていきたいという明確な目的を持っている。「社員に伝道し、信仰に導くことは難しい。こればかりは強制できませんから。でも、諦めません。すでに、来年新卒で入社してくるのはクリスチャンです。こうして一人一人増やしていきたいと思っています」と語った。
最後に石山氏は、「諦めない」ことが自分の信条だと強調した。「若い人にも、諦めず、明確な目標を持ち、それに向かってチャレンジし続けてほしいと思います。目標を達成するためには、耐えられないようなきついこともあります。でもそれを乗り越えなければ成長はできません。その苦しみの中で救ってくれるのが聖書です。私がクリスチャンになって最初に覚えた聖書の御言葉は、ルカによる福音書6章38節です。『与えなさい、そうすれば、あなたがたにも与えられる』。これは、私のビジネスの根幹をなすものです。それから、Ⅰテサロニケ5章16~18節。そして、イザヤの41章10~13節。これは全部暗記しています」と愛唱聖句を暗唱し、御言葉と共にある人生を証しした。
タカボシは、創業以来53年間ずっと東京都足立区で地域の企業として貢献してきた。石山氏は、足立優良申告法人会会長を務めており、タカボシも優良法人として表敬を受けている。自身も社団法人足立法人会副会長、警視庁綾瀬警察署懇話会副会長、潤徳学園理事など多くの要職に就いているほか、無料結婚相談所や、就職や医師の紹介などのボランティアを通して地域社会に貢献している。今年2017年は、つくばエクスプレス六町駅寄りの土地に新社屋が建設され、会社発展を継続しつつ、さらなる社会貢献を目指している。
■ 株式会社タカボシ公式ホームページ
■ 石山伊佐夫氏の著書・推薦書