中世のキリスト教の修道院で3人の修業僧が1週間の沈黙の業に入った。3日目に1人の僧が「あー、3日目になった!?」とつぶやくと、2人目が「おっ、おまえ、しゃべったな!」と指摘し、共に失格になった。3人目はほほ笑みながら、たいそう自信ありげに「おー、これでしゃべらないのは俺だけ!?」としゃべってしまった。後の祭り。
沈黙をすることの難しさを教えてくれる話です。「聞き上手は話し上手」と言われますが、相手の話をじっと黙って聞いているだけでは楽しくないものです。
しかし、神様が私たちに「耳を2つ」「口を1つ」下さったのは、聞くことと話すことの割合を2:1にするようにと暗示されているのではないでしょうか。 聖書には、「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく・・・しなさい」と書かれています。
1人の老人が「人の話を聞くのがうまい」と評判になりました。じっと心ゆくまで耳を傾けて話を聞いてくれるのです。ある人が「聞き上手になる秘訣」を教えてもらおうと、老人を訪ねました。「聞き上手になる秘訣を教えてもらえませんか?」「はっ?ちょっと待ってください」と補聴器を付けました。
聞き上手になる秘訣は、「補聴器」を外して話を聞くことだそうです。いくら人の話を聞くのが上手な人でも、補聴器を付けてまともに聞いていたらやってられないのでしょう。
人の話をじっと聞くのは難しいものです。
しかし、神の言葉をじっと聞くことは有益です。
聖書には、「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」とあります。
人が生きるためには、「パン」だけではなく、「ジャム」も「バター」も「飲み物」も必要ということではなく、「パン」は、飲食全般の総称で、人が生きていくためには食べ物が必要だけど、それだけでは生きていけない。「神の言葉」という「心のパン(食事)」が必要だと教えているのです。
人は、「食欲」「睡眠欲」「性欲」のほかに、「愛されること」「自分が重要な存在だと感じられること」「人から認められること」などを求めています。その全てを「神の言葉」である「心のパン(食事)」は満たしてくれます。
イエス様は、「心の貧しい者は幸いです」と教えられました。今心が渇き、「愛されること」「自分が重要な存在であると感じられること」「人から認められること」などを求めている人は、神の言葉を聞く心があるので幸いです。
しかしイエス様は、「あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです」(ルカ6:24~26)と、世の中の常識とはまるで反対の話をされました。
それは、本当に必要なものは「神の言葉」である「心のパン(食事)」なのに、疑似餌(ルアー「lure」)で釣られる魚のように、心を永遠に満たし、栄養を与える食事ではないもので心を満たしている人は「哀れ」だという意味です。
「お金」は大切です。しかし、使えばなくなるし、落とせば消えます。「名誉・名声」は素晴らしいですが、ちょっとした失敗や不祥事で「不名誉・汚名」に変わり得ます。「人の愛」は最高のものですが、いつまでも続くものではないし、変わる可能性があります。これらを否定しているのではなく、心の拠(よ)り所にしたら、それが崩れるときに、一緒に落胆し、悲嘆に暮れます。
しかし、「神の言葉」である「心のパン(食事)」は、決してあなたを失望させたり、裏切ることはありません。
日曜日、教会に行き、「神の言葉」に耳を傾け、「心のパン(食事)」を食べませんか? 神の言葉を聞き、神を礼拝し、一週間をスタートさせませんか?
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