「司牧的配慮」と「福音宣教」の中で言葉が異なる?
この対談で最も興味深いのは、宮台氏が本田神父について問い掛けるくだりだ。それは本田神父を尊敬する方(私もその1人なのだが)も批判する人も共通して持っている問いなのかもしれない。
それは次のような問いだ。(私自身の個人的見解とお断りしておく)
私自身は、本田神父が現代の教会がキリスト教の教義を広め、教会を維持することに熱心で、そこにイエスの教えはあるのか?と問う鋭い言葉には、いつもうなずかされてきた。しかしその一方で、口にはしない疑問がある。時に厳しいキリスト教・教会批判を行う本田神父自身は、フランシスコ会の元日本管区長であり、新約聖書学者である。そしてメディアを通して世の人には、釜ヶ崎で活動する“異色の神父さん”としてよく知られているのだ。
これまでメディアの仕事をしてきた者から述べるなら、(放送)メディアには宗教を扱うことにタブー感がある(3・11以降だいぶ変わってきたが)。オウム真理教事件への反省や、公共の電波が宣教に利用されることへの警戒感などが理由だといえる。しかし、「宗教」をそのまま扱うのは難しくても、「宗教の社会貢献」「あるいは人生のヒントとしての宗教の知恵」という切り口にすれば、ずっと敷居は低くなる。
日本最大の日雇い労働者の街である釜ヶ崎で活動し、教会の偽善性を批判する本田神父は、言葉を選ばず言えば“メディアで取り上げやすい”宗教者であるといえる。そして異色の神父さんの存在をメディアが伝えることは、一般の人々にはキリスト教・カトリックはこんな活動をしている人がいるのだと、認知やイメージアップにもつながる。
本田神父の厳しい発言、活動に対し、風当たりも強いと聞く。しかし、少なくとも禁止されてはいない。むしろそのような存在と働きをする方がいるからこそ、カトリック教会全体には刺激となりプラスとなっているのではないか?・・・。
ラッツィンガー(前教皇ベネディクト16世)と、公共哲学者ハーバーマスの対談集(『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』)に触れながらの宮台氏の問いは、まさに本田神父へのそのような問い掛けとも言えるのではないか。
一般的には、ラッツィンガーはかつてリベラルな神学者であったが、バチカンに移ってからは保守的な神学者として解放の神学を厳しく批判し、教義の締め付けを行ったと理解されている。しかしハーバーマスは、実は彼が心の中では対立するとみられる解放の神学者にエールを送っているのではないかと問うた。
“苦しむ人がいたらなんとしてでも助けようとする人がキリスト者の中から出てくること自体が、福音の力を示すものである。しかし、それをバチカンが公式に評価すると、既存の教会自体の存続が危うくなる。内心は支持しながらも、批判を行っているのではないか”とハーバーマスは推測した、と宮台氏は本田神父に問い掛ける。
言い換えるならば、教会が共同体を存続させるためには、内部の司牧的立場と外部への福音宣教において態度表明が異なってこざるを得ないことについての問いであり、それをどう捉えているか?どのような立ち位置に立っているのか?という、言葉を選び、敬意を込めながらの直球の問いである。
本田神父はこれに対し、質問の意味はよく分かりますし、何を問い掛けられているかも分かります、として率直に答えている。
「私がよく言われるのが『教会の信者として定位置を持っているお前だからこそ、福音について語るきっかけもチャンスも相手もいるんじゃないか。なんでそれなのに教会を卒業しろだの、否定するようなことを言うのか」ということです。・・・私はそういう意味の司牧的配慮を、もう一切しなくてすむのです。だから言いたい放題、やりたい放題。そのぶん司教様からのお目玉はくらいますが。でも、教会に責任をもつ司牧者としてやるからには、やはり建前と本音をちょっと使い分けるんですかね」
そして、そのような言葉を“ズキン”と感じながらも、本田神父は語る。イエスも死ぬ最後までユダヤ教徒であり、新たな宗教を始めるつもりはなかった。そしてイエスが、命を懸けて示した福音は「その人を、その人として大切にする。尊重する」ことであった。イエスには「宗教なし、神殿なし」だった、と。
とても率直な答えだ。本田神父がここまで率直に自身の立ち位置とその限界について告白しているのは、キリスト教徒であり、社会学者でもある宮台氏ならではの鋭い問いによるものだろう。
しかし宮台氏は、むしろそのような齟齬(そご)、いわば“裂け目”を前にしたときこそ本当の対話の可能性が存在するのではないか?とも指摘する。そしてこうも評価している。
「解放の神学を唱える司祭が出てきたり、本田神父様が出てきたりとか、いろいろな方が出てくるということが、まさにキリストの力なのであると思いながらも、しかし教会としては認められないと敢えて言わざるを得ない。・・・本体とは別に遊撃手的に振る舞うような人たちがいて、初めて全体が成り立つというようなことが、教会にもあるのではないかと思います」
この言葉と分析に、私自身は長年個人的に感じていたこととつながるような思いがして深く納得した。
あるいは、キリスト教史を振り返ったとき、カトリック教会は新しい信仰運動を時に異端としながらも、そのエネルギーを内部に取り入れ換骨奪胎(かんこつだったい)し、あるいは教会や教義として時に枠をはみ出す存在を完全に排除することなく周縁に存在させ続けることで、信仰や組織に新しい活力と刷新を導入してきた。
それは2千年間生き残ってきたカトリックの知恵であり、寛容さであり、別の言い方をするならば“ずるさ”、あるいはカトリックを称するときよく使われる「多様性の中の一致」を示しているのかもしれない。
敬意を払い、共感しながらも真剣勝負の2人の対談を読みながら、そんないろいろなことが頭をよぎった。その意味で、やはりこの対談はとてもスリリングだと言わざるを得ないのである(笑)。
そしてこのようなチャレンジングな対談が、オリエンス宗教研究所で企画され出版されるということは、やはり現教皇フランシスコの姿勢と存在によるものが大きいと考えざるを得ない。
現教皇は、まさに貧困と圧制の政治の現場で活動し続けて、そのメッセージは常に「最も小さくされた者たち」へ向けられている。そして「周縁」「文化受容」を語る。
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教皇が目指そうとしている方向は、本田神父の活動や言葉にとても近いものを感じるのだ。だからこそ、この異色の司祭を中心にしたチャレンジングな企画が初めて成立したのではないだろうか?
いずれにしろ、今年最も重要な読まれるべき1冊であることは間違いがないだろう。
『福音の実り―互いに大切にしあうこと』(9月5日、オリエンス宗教研究所)