「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)
私は小学校6年生の時、学校の図書室に寄贈されていた聖書を手に取ることで初めて聖書の言葉と出会いました。初めての感想は、どこを読んでも全く理解できませんでしたが、理解したいという不思議な魅力があったのを記憶しています。
中学校に入ってから、町の教会に足を運ぶようになりましたが、聖書は理解できないけれども、祈っておられる方々の姿を見て心が癒やされ、その雰囲気に惹(ひ)かれていました。
私の実家は、米農家でありながら、酪農もし、牛乳の販売も行っていました。当然、人手はいくらあっても足りませんので、子どもたちも牛乳配達を手伝っていました。私は小学校4年生から中学校にかけて、手伝っていました。中学生になった私は、NHKラジオの基礎英語と英会話に興味を持っていましたが、牛乳配達の時間と重なるため、自転車にトランジスタラジオを括(くく)り付けて聞いていました。
このような私の行動を見て、配達先の人々はよく話し掛けてくださり、励ましてくださいました。私は、親切にしてくださる方々にいつか聖書の言葉をお伝えすることができるのかなあと思いながら、自転車のペダルをこいでいました。
やがて高校に入り、一段と聖書への興味が強くなり、高校卒業後に聖書学院に行きました。やがて地方教会に召命を受けて行きますが、教会の外の人々になかなか聖書の言葉を語る機会は与えられませんでした。
ところが、チャペル結婚式ブームが起こりますと、ブライダル牧師として聖書を話す機会が与えられました。結婚カウンセリングでも聖書を用いますし、式の中でも短いメッセージを語ることができます。
ある時、メッセージの中でイザヤ書の神の愛について引用したとき、列席の方から電話があり、聖書箇所を詳しく聞かれました。「とても心に残った」と話しておられました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)
ある晩、私は夢を見ました。実家近くの田んぼに近所の人々が集まり、私は土手の上に立って聖書を朗読していました。どうしてこういう夢を見たのか不思議でした。次の週にホテルのチャペルで結婚式がありましたが、列席しておられる方々は、あの夢に出ておられる方々でした。このようなことが3回ほど続きました。
通常ではアプローチできなくても、結婚式の機会に1度でも聖書の言葉を聞いていただけることは素晴らしいことではないかと思います。
また、結婚式だけではなく、キリスト教葬儀の場でも聖書の言葉に耳を傾けてくださいます。葬儀の時は、前夜式や待ち時間の時にも、聖書について話し掛けてくださる方がいらっしゃいますので、より深く話すことができます。
日本の社会では葬儀も多様化し、家族葬などにおいてキリスト教葬儀を受け入れていただける素地ができていくのではないかと思います。冠婚葬祭は一般の人々にアウトリーチできる機会の1つではないかと思います。教会に1度も足を運んだことがない方々も、冠婚葬祭を通してチャペルに出席し、聖書の言葉に触れることができるというのは、大切な働きだと思います。
単にセレモニーを行うだけではなく、面倒な役所の手続きのお手伝い、列席者へのおもてなし、ご遺族の方々への心のケア、遺品整理のお手伝いなどを通して、神の恵みを証しできる機会となるのではないかと思います。
「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」(Ⅰコリント9:22、23)
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