最近、驚くようなニュースが新聞に掲載されていました。発掘された奈良時代の木簡を赤外線読み取り装置にかけたところ、「破斯清通」という名前が読み取れたというのです。「破斯(はし)」とは、ペルシャ人という意味だそうです。当時の宮廷に仕える役人の宿直日誌みたいな木簡が発見されたのです。
奈良時代の役人の中にペルシャ人がいたということは、当時の社会がとてもグローバルなものであったということになります。また、シルクロードの最終地点が奈良であったということを証明しているといっても過言ではありません。
ここで想像力を働かせますと、とても興味深いことを推測できます。旧約聖書時代にユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行されていましたが、その数は50万人だったともいわれます。ペルシャ王クロスがバビロニアに攻めてきて、ユダヤ人を解放します。大部分のユダヤ人はクロス王の援助を受けながら、イスラエルの再建を目指しますが、一部はバビロニアに残り、また一部のユダヤ人はペルシャに行き、ユダヤ人街をつくっていきます。
今から20年くらい前にエジプト旅行に参加しました。その時に、赤ちゃんのモーセが拾われたという遺跡に行きました。当時はユダヤ人を迫害するエジプト王が治めていて、ユダヤ人の男の子は殺すように命じられていました。モーセの母親はパピルスで編んだ籠に幼子を乗せ、ナイル川に流しました。その時、エジプトの王女が川べりで水遊びをしていて、幼子モーセを拾い、わが子として育て、エジプトの最高の教育をして、やがてユダヤ人の指導者になっていきます。
幼子モーセが拾われた所に、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)が建てられ、安息日ごとにユダヤ人が集まっているそうです。モーセの時代から今日に至るまでヘブルの文化や言語、習慣などが継承されているそうです。ユダヤ人の住んでいる地域ではどこでもシナゴーグが建てられ、同じように宗教と文化が継承されてきました。バビロニア(イラク)やペルシャ(イラン)でも同じように行われていたことは推測できます。
ユダヤ人は祖国を失った流浪の民です。ペルシャに移り住んだユダヤ人の子孫が迫害のために生まれ育った所を離れ、シルクロードに沿って東の地を目指すということは不思議ではありません。
「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ」(イザヤ書24:14、15)
ユダヤの父祖と呼ばれるアブラハムとその妻サラは、メソポタミアのハランで生まれています。恐らく、シュメール人の血統だったと思います。シュメール人の姿は洞窟壁画として残されています。東洋人によく似ています。昔のユダヤ人は東洋人によく似た姿をしていたのではないかと思います。ですから、シルクロードの最終地点といわれる奈良の都に来ても違和感なく溶け込めたのではないかと思います。
もし奈良の都にユダヤ人がいて、朝廷の役人までになっていたということが事実であるなら、今まで不思議に思われていたことの謎が解けます。日本の神道の中にユダヤ教に共通のものがあるということ、おみこしと契約の箱の類似点、伊勢神宮の本殿のサイズとユダヤ教の幕屋のサイズが同じということ、神職の装束がユダヤ教の祭司の服装と似ていることなどです。
古代日本人は文字を持たず、中国から導入した漢字を用いていました。そのまま日本語に取り入れるのは難しかったといわれますが、その普及を早めたのが、平仮名と片仮名の発明だといわれます。平仮名と片仮名はヘブル語をくずして作られたともいわれます。語学の天才といわれるユダヤ人であれば、平仮名と片仮名を作り出すことは難しくなかったのではないかと思います。
地下に眠る木簡はかなりあると言われています。これから発掘が進み、解析が行われていけば、驚くような事実が明らかになっていくと思います。私たちの想像を超えて東西の文化は交流し、密接に関わっていたことを思うとわくわくしてきます。
シルクロードは陸の道と海の道と2通りあったといわれます。陸の道は、中国大陸、朝鮮半島を経て日本に入ります。海の道は、インド、台湾、沖縄を経て日本に到達します。沖縄の離島にユダヤの伝統に由来すると思われる行事や習慣が残っているという話を、沖縄文化を研究している人から聞いたことがあります。
私たちの先祖とユダヤ教が関わりがあり、実は聖書の教えは届いていたということが分かれば、福音宣教の新しい鍵を見いだすことができるかもしれません。この国は決して宣教の困難の地ではなく、必ず福音が土着できる土壌があると思います。
「地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ」(ヨエル書2:21)
※古代日本とユダヤ人との関係に関する本コラムの内容は、あくまでも筆者の個人的な見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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